ヒゲおやじの書斎


ここでは、私の著作などを紹介します2004. 01. 06 Tue

 この「ヒゲおやじの書斎」では、過去に書籍や雑誌などに掲載された私の原稿を掲示します。お暇なときに、どうか読んでみてください。感想など、掲示板にカキコしていただければ、とても大きな励みになります。

ちょいと小噺2005. 01. 31 Mon
おお、おめえ、竹篭なんぞ持ち出して何やってんだ。
ああ、そうか、その篭でスズメなんぞ捕まえようって算段だな。
ははあ、竹篭伏せて棒でつっかえ棒して、棒にヒモ結んでおいて、
で、竹篭の下に飯粒まいておいて。で、チュンチュンとつつきにきたところで
ヒモを引く。そうよな、ま、おめえの知恵じゃそんなとこだな。
ええ、俺かい。俺ならもっとうまいことやるよ。
なんてたった今時は冬も真っ只中。寒いも寒いお寒い真打だ。
だからよ、まずは手桶に水を用意する。でもって冷え切った地面に飯粒をまく。
な、するってえとチュンチュンやってくるね。一羽が二羽、二羽が四羽、四羽が八羽。
でこのくらい集まってくれりゃいいってころあいに、
最前より備えておいた手桶の水をサッとまく。
そんなことしたらスズメが逃げるってか?
そこが知恵の違いよ。な、いまは真冬だよ。ここは極寒の地だよ。冷え切ってるよ。
そこへサッと水をまくんだから、スズメなんざ飛び立つ間もなく地面に凍りついちまう。
そこを見計らって地面にはえた形のスズメをよ、鎌で刈り取るのよ。
ったく、おめえは分からない奴だねえ。この刈り取るってのが大事なの。
刈り取るとさ、ほらスズメの足が地面に残るだろ。それはそのままにして春を待つ。
するってえと、そこから新芽が出てきて、も一度スズメを刈り取れるって寸法だ。
ええ、どうだ。おめえもやってみな。

心身一如(月刊「食生活」に山崎が連載中のコラムより転載)2004. 12. 15 Wed
【連載第1回】
 原稿書きに集中する日々に、最良の気分転換は食です。穴倉のような書斎から這い出し、冷蔵庫を漁り、気分にまかせて作る気ままな一皿。こいつをビール一缶とともに食して後に仮眠。作って食べて眠って計2時間ほどのリクリエーション。これ以上の遊びに手を出すと原稿作業は途絶しかねません。まして外出なんかしようものなら、いつ穴倉に戻るか分かったもんじゃない。だからマジメに書くときの私にとって「調理して食べる」は、最良のお楽しみです。
 ところが、このささやかな息抜きを楽しめない時期もありました。悔しいことや疲れることが折り重なって、いつの間にか心がウツの色に染まってしまった時期、私は味覚を喪失しちまってました。
 味が分からないから塩の量が多くなる。あれもこれもと香辛料をぶち込んでみる。それでも唾液が出ない。何を噛んでもおもしろくない。そんなときには、ついついビールばかりがすすんで、いつしか強い酒になり、酔いでごまかしては原稿を投げ出して長く重い眠りに逃げ込んだものです。
 あの重暗い日々に光をさしたのはアンデスの塩でした。偶然手に入れたオレンジ色の岩塩。こいつのふっくらと甘味を含んだ塩気と仄かなオレンジ色の色気は、たしかに私の味覚を呼び戻す力になりました。
 私の生業は心理カウンセリング&物書き。このコラムでは「心と体と食」をめぐってのアレコレを書かせていただきます。
初めまして。どうかよろしくおつき合いください。

【連載第2回】
 背にオブった長女がいいました。「お父さん、野菜食べたい」。食が細くて野菜嫌い。「ホントに?」。私は問い直して、すぐ気づきました。妻が入院してほぼ2週間、若くいまだ料理下手だった私が作る食事は、手抜きのきわみで決定的な野菜不足。野菜嫌いの娘も、体の欲求に抗(あらが)えずに「野菜」を口にしたのです。人間の体は、そのときに必要な食べ物・栄養を知っていて欲しがるのだな。私は学びました。
 長野県白馬村の気のいい栄養士さん。私と同年代の仲良し。長女のエピソードを話すと、メガネの眼(まなこ)をニコニコして「そうよ、そうなのよ」とうなずいてくれました。彼女も、若いころには「栄養」を錦の御旗に掲げていたけれど、いつしか子どもの舌と欲求を信じられるようになったといいます。私は、自身の好みの変化も思い返します。大きなステーキが美味しかったのは昔の私。いつしか野菜の滋味がうれしい体に変わっています。
 親が口うるさいと子どもは萎縮します。コレ食べろ、アレも食べろ、好き嫌いしちゃいけない、もっと食べろといわれ続けると、コレもアレも嫌いで、食も細くなりがちです。萎縮の反動は暴力的な反抗をも招きかねません。私は、子どもの問題をめぐるカウンセリングを通じてその種の心のカラクリを思い知らされました。思い知ったはずでした。けどダメだなあ。夕べもそうでした。小6の息子に、つい口うるさく「野菜もっと食べろ」をいっちまいました。「分かってるよ」。息子の口ごたえにはそろそろ思春期の色。背に5歳の重さを思い出しながら、少しだけ反省などもしつつすすったお酒が、ちょいと心に沁みたりしちゃった夜でした。

【連載第3回】
生まれ育った家では、台所の床板を一枚のけると祖母丹精の糠甕が鎮座していました。毎日必ず台所の床に座り、腰を屈めて糠に手を入れていた祖母の姿を、四十余年が過ぎたた今もはっきり憶えています。もちろん毎朝必ずお膳にのった胡瓜や茄子ほか季節ごとのお新香の味は、忘れられるはずがありません。祖母の丹精は、今も私の舌の記憶であり、少年時代の食卓に欠かせぬ情景でした。
近所に私と同い歳の男が四半世紀にわたって暖簾を出し入れしてきた飲み屋があります。安くて客ダネがよいほかに取り立てて記すこともない店だけど、糠漬けだけは立派。私は、祖母のお新香以来の旨さを悦んでいました。ところが数年前のある夜、出てきたのはそっけない市販品。旨いわけがない。文句をいうと「糠がダメになっちゃった」、またつくるのかときけば「もうやらないよ」。糠床があると旅もできない。店も暮らしも独りでやりくりしてる彼にしてみりゃ無理もないか、とあきらめました。
忘れられない情景があります。あれは中学一年の終わり。祖母が他界し親類縁者の気忙しい出入りが一段落して後のことです。台所の床に座ってうつむいてる兄。傍らには床板。右手は糠でよごれてました。「おバアちゃんの糠ミソがダメになっちゃった」。そりゃそうさ。気忙しい日々、誰も糠の手入れをしなかった。あの日を境に祖母の糠漬けは二度と味わえぬ記憶となりました。けれど、私の心には、四十年余を経た今もこれからもずっと、かけがえのない糧。アチコチ旅したり知己を訪ねたりしてそれぞれに丹精の漬物をいただくたびに、祖母の姿を思い出します。折々に舌で味わう悦びとともに、あの糠漬けの味にもいたわられている自分に気づくのです。

【連載第4回】
 信州は小谷(おたり)村の山奥、小谷温泉のさらに奥の鎌池(かまいけ)をながめてきました。紅葉の盛りにはわずかに早かったけれど、それでも見事な美しさ。池の畔を歩きながら、あちこちで立ち止まっては見呆けました。青い空と木々の葉の色がそのまま水に映る上下対称天然の彩。胸が締めつけられるほどの美しさでした。一周して一キロ強ほどの鎌池の水はとても静かに澄んでいます。底を覗けば倒木と降り積もった枯葉。さまざまな「かつての命」が朽ちてゆきつつある水なのに、しかし清らかです。
美しさに見ほれ水に魅入られながら、私は気づきました。おいしそうです。掌にすくって口ですすると思ったとおり。滋味を含んだおいしさです。「やったね、飲んでよかった」。その瞬間、景色と水の滋味とが対の記憶となって心にファイルされました。鎌池のすぐ近く、一段低くあるのが鉈池(なたいけ)。こちらはとても小さくて、まったく人影もなく深閑としています。その静寂の片隅に鎌池から地をくぐり抜けてきた清水が流れ込んでいました。もちろんそこでも飲んでみたら、叫びたくなるほどの極上。鎌池の水が大地にろ過され磨かれ、なめらかでありながら滋味はそのまま残っているのです。「ああ、ウマイ!」。また一つ、深閑たる静寂と極上の水が対となって心にファイルされました。
 心の糧。私は軟弱者だから心の糧なしには過ごせません。天然自然に抱かれ、活きた水を味わえないまま過ごしたら、ほどなく不機嫌と無気力の塊になってしまいます。帰り際、お店に座ってお酒をお願いすると「どうぞ」と出できた小皿の山菜。これまた美味しくて、タダで出してくれた気前もうれしくてね。ホント、よい糧に満たされた一日となりました。

【連載第5回】
 講演旅に同行してくれた青年が、水も景色もきれいな釣堀で岩魚(いわな)や山女魚(やまめ)を釣りました。前夜、丹念に巻いた毛鉤(けばり)。彼はフライフィッシングを唯一の道とする釣り好きです。「今夜、これを骨酒(こつざけ)にしましょうよ」。そりゃいい。だったらふさわしい酒だね。信州の小さな町の少し侘しい駅前通りにみつけた古めかしい酒屋には、店主吟味の一升瓶が並んでいました。値札と折り合いながら目にとまったのは純米の生地酒。「これ、甘いですか?」「ええ、さっぱりした米の甘味です。燗すると辛さが立ちますよ」。そりゃ骨酒によさそうだ。「けれど、早めに呑みきらないと、その酒は生きてますから」。ああそうか。放っておくと米酢になりかねないってことなんだ。
 釣り好き青年は釣った岩魚や山女魚を賞賛しました。「大地も水もいいから生命力にあふれている。魚体がとても美しい」。その特上の獲物を宿の主が薪ストーブの熾火(おきび)でじっくり焼いてくれます。理想の遠赤外線焼き。極上の焼き具合。こいつを器に横たえ熱く燗した件の酒を注ぐ。身をほぐす。すると酒とたんぱく質と脂が溶け合う。青年はうめきました。「うまいっす。本当にうまい」。深い苦しみを抱えたどん底の日々から這い上がりつつある彼が満面の笑みを浮かべ体をゆらして愉悦しました。
 あの食卓で「うまい・おいしい」が幾度行き交ったことか。風土が恵んでくれた命の味わい。風土に慈しまれた人が意を尽くして引き出してくれた滋味。今は働くことをやめて自身をいたわり癒している彼が、ありがたい命と人の手の滋味をいただいて力を取り戻す姿。ああ、生きられるな。それは私自身の内なる実感でもありました。酔い冷めて見上げてみれば満天さんざめく星々。生きてるんだよな、みんな。

【連載第6回】
 私のカウンセリングルームは、つい先日、一日だけですが「スナック・ハートピット」として営業しました。実態をいえば単なる懇親パーティーなのですが、その日の私はスナックのマスター&調理人を気取りながら、ゲストの皆さんに自分なり腕をふるった料理を提供したくて張り切りました。集ってくれたのは二十名ほど。私が作ったのは三品だけ。たったそれだけでも「にわか調理人」は精一杯の知恵を駆使しました。
 おもしろかったのは買い物。たった三品とはいえ、二十名ほどを想定しての量。ずいぶん頭が混乱しました。あげくに三品それぞれ色合いや味に演出を加えようと欲張るのだからなおさらです。ある食材を選び取ってみては得心できなくて棚に戻し、他を選びなおしてもなお心定まらずにウロウロし続けました。プロの大変さはこんなもんじゃないはずだと生意気な想像までしながら、ずいぶん長時間ウロついたあげく、しょうがない、割り切れぬ気持ちを残してレジに向かいました。けれどその刹那に!マークです。ああ、アレだ。私はカゴの食材一つと「アレ」とを入れ替えました。そしたらやっとです、三品を皿に盛った情景が目にみえました。
あのとき、私の頭は体の感覚にうっちゃられたのです。事前に頭が計画したとおりに食材を選びながら、どうしても得心できない。頭ではこれでいいじゃないか、と考えているのに身体が落ち着かない。心理カウンセリングのプロセスでは珍しくありません。頭はこれでいいと割り切ろうとしながら、でも居心地が悪い。その居心地の悪さにこそ選び取るべき解が隠れているのです。その種の場面に遭遇するたび、頭脳というものの限界を感じます。そして「心」というものの不可解さと奥行きを想うのです。

【連載第7回】
子どもは育ってくれるんです、親が育てるわけじゃない。すると反論。そんなことない!  親が手間かけ世話するから育つんだ! 厳密な説明を求められたらドギマギするしかないけれど、私はやっぱり、子どもは育ってくれるんだ、と痛感してます。泣いてわめいて悩み苦しみさんざん苦吟した歳月の末、心豊かな平穏にたどり着いた親達ならみな異口同音。本当に、私は子どもを育てたわけじゃない。あの子は己が命の力で育ってくれたんです。
まだ子どもが小さく可愛い盛りのお母さんたちに、つい小言する私。オッパイ飲ませる? そりゃ違うよ。お母さんにできるのは乳首を含ませるまで。飲んでくれるのは子ども自身でしょ? 消化吸収してくれるのも子どもの体でしょ? 飲ませるんじゃなくて飲んでくれて育ってくれてるんだよね。子どもって素晴らしいね。若いお母さん達は、何いってんだろこのヒゲ爺さん、と怪訝顔。そうだよな、子どもは育ってくれるんだって実感、まだ分からなくても無理ないな、と思います。
美味しい料理を並べても、食べたくない子は食べません。小学生より小さけりゃともかく、思春期となったら絶対応じません。食べたとしても、少なくとも心は強張りお母さんの「愛」への拒絶感を深めます。栄養だって、添加物だって気をつけたのに。何でこの子は! 腹立てるのも分かるけど、食べるも育つも子どもの奥も深くの意思のゆえ。魂レベルの意思の発露です。誰にもどうこうできることじゃない。だから、そんなときには寄り添います。魂に触れる気分で「どうしたの」と心の芯から問うてみるのがいいんです。

【連載第8回】
三歳に満たなかったころの私が口の中で踊る素魚(しろうお)の感触に大喜びしていた。母が何度も語ってくれた思い出話です。素魚の踊り食いは福岡・博多の名物。私は父の勤務地であった博多で三歳までを過ごしたのだから、たしかに踊り食いを喜んだことがあるのでしょう。けれど、もちろん憶えてません。記憶の奥底に沈んでる気はするのですが、素魚も博多もともに遠いかすかな感触。40年近く前に他界した父の感触も、10年ほど前に去った母の姿も、それぞれに遠ざかり続ける記憶となっていました。
素魚の感触は忘れていた私ですが、一つだけたしかな情景を憶えています。それは海を間近に見下ろす丘。そこにいるのは父母とヨチヨチ歩きの私。心地よい風。父母の穏やかな微笑み。あれはどこだったのだろう。母に尋ねても判然としなかった懐かしい場所。3月、博多に旅した私は、記憶の底に沈殿する感触をたよりに歩くうちに「ああ、たしかにここだ」と確信できる場所にたどりつきました。証明するのは無理。けれど判るのです。そこはたしかに「あの丘」でした。
幼児期の記憶は摩訶不思議です。無意識または感触としてはたしかに憶えている。したがって意識ではなくて五感にまかせてみれば出会いなおすことができる。そうなのです。丘をめぐって眺めた博多湾は、私にとっては海としての原風景。その海を前にして私は母と父の感触をグイとたぐり寄せることもできました。ただね、ジジイとなった現在の舌をもって素魚の感触を呼び戻すべく天神あたりを歩いたものの、帰路をひかえて時間切れ。踊る感触だけは、今もまだ時の彼方に置き忘れです。

【連載第9回】
ロハス。思いっきり意訳するなら「地球と自分をしっかり大事にしようとする理
念」。LOHAS=Lifestyles Of Health And Sustainability=健康的かつ地球環境を保
持できる生活スタイル。このロハスという言葉自体がsustainableな(ずっと生き残
れる)造語かどうかは怪しいけれど、今後の私たちに残されている生き方の王道なら
「健康的で地球環境を調和的に保持できる道」に違いないのでしょう。表面的な効率
のみを追求したこれまでのスタイルには早々バイバイしないと、人間の営みを支えら
れる地球環境のsustainabilityは早晩瓦解に瀕し、人類の健康的な生き残りも不可能
となるはずです。
スローライフ。ゆっくりズム。これもロハスに似た理念。ファストフードの反対がス
ローフード。ゆっくり味わって食べようじゃないの・生きようじゃないの、がスロー
ライフ。私はクルマの車検切れを放置したおかげでスローライフを楽しめるようにな
りました。自宅からカウンセリング事務所までの3qほどを徒歩で行き来するように
なって、その道のりが楽しい味わいとなり、日々の満足の糧となりました。クルマで
行き来するときには見過ごしていたあらゆる風物が、季節のめぐりに飾られながら、
身と心を甚(いた)く歓ばせ満たしてくれるようになったのです。
食べるも暮らすも同じですね。焦って急いでかっこんでたら、お腹も心も少しも満足
できません。ゆっくり味わうなら本当の適量で満たされます。加えて、不要・不利益
なものごとは自然に遠ざけられるようになり、あげくはロハ(ただ)で楽しめる領域
までもが拡大します。ロハスをめざせば、心身ともにほどよく満たされ、かつ経済効
率抜群のロハ生活さえ夢じゃない、ってことです。

【連載第10回】
某雑誌の取材。「定年離婚されない対策」がテーマでした。主要読者は熟年男性。彼
らにとって、定年離婚は他人事と高をくくっていられない要対策事項なのだ、とは若
き美しき記者の言。カウンセラーとして数多くの夫婦の「実情」をかいまみてきた私
は、こりゃ困った、と戸惑いました。定年離婚の背後にありがちな事情がそれなりみ
えているだけに、定年が視野に入ったところからの対策が功を奏するとは思えないか
らです。
 ちょいと前に出た拙著『「未熟な夫」と、どうつきあうの?』。妻たちが辟易しが
ちな夫族の未熟さ加減の実態と対策を詳述した本です。あきらめて我慢するか、はた
また離婚か。実例を商会しながらまとめました。ご想像のとおり、この本を女性は歓
迎、男性は眉をひそめました。ところがここにきて異変。どうやら男性読者が増えて
いる様子です。さすがに男性諸氏も気づき始めたのかな。このままの未熟に胡坐をか
いていたら俺も定年離婚されちまいかねないぞ。そんな危機感を梃子に、自分を賄う
スキルを磨かんとする男が増えているかもね、とも観察しています。
自分を賄う基本は、やはり食。自分の食を自分で賄えないと、どうしても伴侶に過剰
に寄り掛かかる。食を賄えない未熟、身を賄えない未熟は、そのまま心の未熟と直結
しがちです。もう縛られるのは嫌。定年離婚する女性はいいます。定年離婚されちゃ
う男は、嫌だと拒む妻にすがります。俺を独りにしないでくれ。独りにされたら食う
のに困る。着替だってどうしたらいいんだよ。んなもんですからワタクシ、わが息子
を料理好きへと導かんとしておるのでございます。

叔父の生を想い2004. 11. 12 Fri
和光鶴川小学校6年生70余名を前にして(2004年10月)

 今日は。みんなのところに、印刷物が2枚配ってあります。一つは新聞のスクラップと写真、一つは旧大日本帝国海軍の戦闘機・ゼロ戦の写真です。
 まず、この写真の人がどういう人かを説明します。(家計図を描きながら)君達の学年に山崎星慈がいます。星慈の父親は私です。星慈には、もちろん母親もいます。父親である私にはお兄さんがいます。私にもお母さんとお父さんがいます。私の両親は、星慈のおバアちゃんとおジイちゃんです。
 この星慈のおジイちゃんには三人の弟妹がいます。まず弟の1、弟の2、それから妹がいます。もちろんこの人たちにも両親がいます。この両親は私にとってはおバアちゃんとおジイちゃんであり、星慈にとっては曾おバアちゃんと曾おジイちゃんです。
 この写真に写っている戦闘機乗りの服を着て飛行帽をかぶっている人は、星慈のおジイちゃんの弟の2です。山崎幸雄という人です。生まれたのは1924年です。
 1924年には、君達がよく知っている人がもう一人生まれています。誰だと思う? (丸木先生?)そう、和光学園園長の丸木正臣先生も1924年生まれです。ですから、もしこの写真の人が今も生きていれば、丸木先生と同じ80歳です。
 でもこの写真は21歳です。彼は21歳で死んでしまいました。こちらには死ぬ日に撮られた写真があります。ここに写っているこのグループのみんなが死んだんです。
 さて、いいですか、1924年に生まれて、今の君達と同じ小学校6年生、11歳か12歳になっているのは、1935年です。では今、君達が生きているこの時代を1935年だと考えてみましょう。すると何が起こっているのだろう。何が始まっていたのだろう。
 たとえば中国で戦争が始まったのは1931年ころです。満州事変というのが始まったのがその年。もしも君達が1924年の生まれだったら、1931年には小学校2年生くらい。まだ小さな子どもだから、戦争は遠い話でしかなかったことでしょう。
 では小学校6年生になった1935年ころをみてみると、その翌年には日独伊三国同盟というのが結ばれています。聞いたことある? 日本とドイツとイタリアが、お互いに手をつないで他の国と戦おうという約束をしたのが1936年、来年になります。
 つまり、1924年生まれの君達が6年生になったころ、日本はいよいよ本格的な戦争に踏み込もうとしているわけです。大変ですね。ただ、まだ小学校6年生ですから、まさか自分達が戦争に行くことになるとは考えなかったことでしょう。山崎幸雄さんも、小学校6年生のころには戦争で死ぬことなど考えてなかったと思います。
でもだんだんと戦争が激しくなってくる。1939年、君達が15歳くらいになったころには、ナチスドイツがポーランドに侵攻して、ヨーロッパでは第二次世界大戦が本格化します。その2年後、1941年、君達が17歳くらいになったころに、日本はハワイの真珠湾を攻撃して、いよいよ太平洋戦争、アメリカをも相手にした本当の戦争を始めてしまいます。
君達は17歳。そろそろ戦争に行かなければならない心配が出てきました。1924年に生まれているというのは、そういう年齢です。丸木先生も、戦争に行かなければならない自分を思っていたことでしょう。
1941年の真珠湾攻撃から、日本軍はけっこう頑張ってというのか、軍事力も国力も桁違いなアメリカを相手に、かなりよく戦いました。まず真珠湾攻撃がうまくいったみたいで、最初のうちは「もしかしたら勝てるのではないか」あるいは「引き分けくらいにはもってけるのではないか」と、日本軍の上層部や政府も考えていたようです。ところが1942年の終わりころ、ミッドウエイ海戦などがあって、そこから日本軍は負け始めます。そしてどんどん負け続けた結果、沖縄にアメリカ軍が上陸してくる。そしてアメリカ軍の上陸を阻止しようとして、君達が勉強してきたように、沖縄では数多くの悲劇が起こります。同時に、日本からもたくさんの飛行機や船が沖縄での戦闘に送り込まれます。
たとえば当時世界最大の戦艦だった大和も特攻出撃して、帰りの燃料を積まないで沖縄に向かって途中で沈んでしまいました。その他のたくさんの船や飛行機が、片道だけの燃料を積んで沖縄に向かいました。
特攻隊の飛行機はみな片道の燃料しか積んでいません。帰ってくる必要はないし、帰ってきてはならないからです。アメリカの船に突っ込むために飛び立ったからです。
その目的のとおりアメリカの船に体当たりできた飛行機もあったでしょうけれど、多くの飛行機は体当たりできずに海に落ちました。
 みんなちゃんと知っておいてください。戦争の映画などみると、飛行機が煙を吐いたり燃えたりしながら落ちてゆきますね。あれは飛行機が落ちてゆくだけではないよね。飛行機が落ちてゆくときには、その中で叫び声をあげながら死んでゆく人がいるわけだよね。
 飛行機の戦争って、とっても格好よくみえてしまうから、つい誤解してしまうのだけど、あの中では死んでゆく人がいるんだよね。もしも燃えていれば、火傷しながらギャーと叫んでいるかもしれない。そういうことが落ちてゆく飛行機の中では起こっているのだということを、忘れないようにしなくちゃいけない。
 とにかくたくさんの人々が、沖縄特攻に参加して、そして死んだんです。
 さて、ここで私が新聞に投稿した文章を読ませてもらいます。朝日新聞の「声」という欄に載ったものです。
 『叔父に特攻を志願させた国』。叔父さんというのは山崎幸雄さん。私にとっては叔父さん。星慈にとっては大叔父さんです。志願させた国を、私は日本だと思っています。
 「旧海軍特攻隊に志願し死んでしまった叔父がいました。私は彼が21歳で特攻死して4年後の生まれ。」
 そうなんです。私は彼が死んでから生まれているのだから会ったことなどありません。写真でしか会ったことがありません。
 「学徒出陣の波にさらわれ、ごく短期間の訓練を受けただけで特攻に志願してしまったようすです。ゼロ戦に乗った叔父に、少年時代の私は憧れていました。21歳で死なねばならなぬところに追い込まれた心中を察することなどないまま過ごしました。
 私は約10年前、叔父の母校の北海道大学に行き散歩しました。広々としてたくさんの木々に恵まれたキャンパス。心地よい散歩でした。しかし歩くうちに、そこで学んでいた若い叔父の姿がリアルに浮かび上がりました。彼がこのキャンパスに残しただろう思いが押し寄せてきました。死にたくなかったろうに。好きな女性だっていただろうに。もっと勉学したかったろうに。友と語り合いたかっただろうに。私は慟哭しながらキャンパスをさまよいました。
 叔父は最後に戻った実家で、1歳半だった私の兄を抱きながらいったそうです。『私という人間が生きていたことを、この子に伝えてください』。私はこの叔父に生きていてほしかった。悔しくてなりません。」
 慟哭って知ってる? 声をあげて激しく泣くことです。北海道大学のキャンパスの中を歩きながら、周囲には人がいるんだけど、たまらない気持ちになって声をあげて泣きました。会ったことのない叔父なんだけども、ここで生きていたんだな、そして若くて死んでしまったんだな、と思ったら、とてもたまらない気持ちになって泣いたんです。
 ただ、投稿した文章には間違いがあります。あとで教えられて分かったんですが、本当は北海道大学の学生ではなかったんです。北海道大学に付属する土木専科という、北大のキャンパスの中にある専門学校の学生だったそうです。で、本当は北大の学生であれば戦争に行かなくてよかったのですが、専科であり、それを半年繰り上げ卒業させられて、翌年4月の北大受験を目指して受験勉強中に徴兵されてしまいました。
 繰上げ卒業というのは、もうこの大変な戦争の中で勉強なんかさせているのは無駄だ、卒業させてしまえと、学年の途中なのに卒業させてしまうんですね。叔父は、繰上げ卒業させられて、翌年の受験を目指して受験勉強している浪人だったために戦争に取られてしまったということが、投稿記事を読んだ人に教えられて分かりました。
 この投稿が新聞に載ったのは去年の5月17日。その後に何人もの人が私に連絡をくれました。まったく知らない人ばかりです。一緒になって悔しがってくれた人、死を悼んでくれた人。いろんな手紙が届きました。中には、そんな風に悲しむのは彼に対して失礼だ。彼は国のために散ったのだから、悔しがってはならないというようなお叱りをくれた人もありました。そういう気持ちを、私も分からないではありません。死なねばならなかった仲間のことを、無駄死にであるかのようにいわれたくないという気持ちも分からないではない。けれど私は、この幸雄叔父さんのことを思うと、本当に悔しかっただろうなと思います。だからお叱りの気持ちは、受け取りはするけれど、ウンそうですね、とうなずくことはしませんでした。
 さて、新聞をみて連絡をくださった中の一人がね、なんと、北海道に住んでいて、いま80歳になっている斉藤教蔵さんという方が手紙や文章を送ってくださったのだけど、この方が幸雄叔父さんの親友でした。私は斉藤さんと電話でも話しました。そのとき斉藤さんは、山崎幸雄という人の死について今になって語り合えることが、とても助かるといってくれました。
 死んでしまう。それは本人にとってもちろん大変なことなのだけど、自分の仲間とか大事な誰かが死んでしまったということをずっと胸に抱えたまま60年間も生きてきたというのも、とても大変なことなのだなと思いました。
 整理しましょう。幸雄さんという人は、1943年・昭和18年に、北海道大学付属土木専科を繰り上げ卒業となり、翌1944年の春に北海道大学に入学しようとして準備していた。その準備をしている間に、大急ぎで兵隊にしてしまう、大急ぎで飛行気乗りに仕立ててしまう訓練の中に取り込まれてしまったんです。
 普通、戦闘機のパイロットになって、映画なんかでみると格好いい空中戦ができるようになるまでには、大変に長い訓練が必要です。多分、本当だったら3年か、それ以上かかるはずです。
 けれども、1943年ころには、パイロットがどんどん死んでしまっていました。日本軍はどんどん負け続けているころです。飛行機もどんどんなくなっていて、パイロットもどんどん死んでしまっていました。だからちゃんと訓練して本当に戦えるパイロットに育てることは、もうできませんでした。たった一年間くらいの訓練で戦場に送り込むような、速成訓練、とにかく大急ぎで、飛べればいいんだ、飛んで体当たりすればいいんだから、そんな綿密な訓欄はいらないよ、というような速成訓練で仕上げられてしまったんです。
 ただね、幸雄さんという人は予科練第14期生といって、戦争も本当に終わりのころになってやっと戦場に送り込まれることになったグループに属していました。このグループの人たちは、実はあまりたくさん死んではいません。たくさん生き残っています。けれど幸雄さんは、14期生の中では少数派に属する戦死者です。
 なぜなら、飛行機の運転が上手だったんだって。だから、お前はもう体当たりできるだろう、という話になってしまったわけです。
 私は、私のお父さんやお母さんから、幸雄さんのことについていろいろ聞きました。彼はとても優しい人だったようです。とても勉強が好きで、サッカーもテニスも好きで、野球がとても上手だったんだって。とてもよく遊んで、いろいろなことに興味をもって、とても元気よく楽しく生きる人だったんだって。
 だからこそ本当は死にたいはずがなかった、と私は信じています。
 けれどね、あの時代に、たとえば彼と同じように予科練で飛行気乗りの訓練を受けて、大体なんとか飛べるようになって、さあ今この国は大変な状態だぞ、君達の命一つ一つで本気で戦わないとこの国はつぶれてしまうぞ、この国を守る気持ちがある者は特攻隊に志願しなさいといわれたら、どうだろ。ズラリと仲間が並んでいる。国を守るために命をかけて戦う気持ちのある者は一歩前に出なさい。そういわれて、どうするだろ。君達がもしもそんな立場になったら、一歩前に出ないでガマンして動かず立っていられるだろうか。
 みんなが、出なくちゃいけない、出なかったら卑怯者なんだぞといわれるんだよ。それでもそのまま動かずに立っていられるだろうか。立っていられるとしたら、それはすごい勇気だよね。ものすごい勇気です。
 けれども、大抵の人は、あの戦争という異常な時代の中にあって、そういう勇気を発揮することはできません。弱いからじゃない、人間ってそういうものなんです。だから幸雄さんも、一歩前に出てしまったんです。
 死にたいわけがないのに、死に向かって一歩出なければいけない。それが戦争というものです。
出てしまった結果、すぐに特攻隊に組み込まれて、沖縄戦が激しい中、4月29日に、彼は鹿児島の基地から、沖縄まで飛べるだけの燃料を積んだゼロ戦で、空に飛び上がりました。お腹には爆弾を抱えている。帰ってくる燃料はない。
あとで話を聞いたけれど、空中戦なんて一度もやったことないんだって。ただただ体当たりの練習だけしてたんです。
本当のことは誰も分かりません。航空母艦に体当たりしたぞ、だから偉かったぞというような報せが、海軍から届いたそうです。でも本当にぶつかることができたかどうかは分かりません。
あの特攻というのは、あんなことやっちゃいけないのは分かりきっていることなのだけど、アメリカの船に初めて特攻機が突っ込んだときには、アメリカの船に乗っている水兵たちは驚いてしまって、撃ち落すことができず、体当たりが成功しちゃったんですね。だから、これはいい方法だといい気になっちゃったんだね。だけどそのうち、アメリカの水兵は驚かなくなりました。クレイジーだ、気狂い沙汰だと思いながらも、また特攻機がやってきたのをみつけると、とにかく必死になって機関銃や大砲で撃ち落そうとしました。だから特攻機は、体当たりしようとする船にたどりつく前にどんどん海に落ちました。
いよいよあの船に体当たりするぞとなると、パイロットは電波のスイッチを入れるそうです。すると基地の無線機には「ピーーーーーー」という音として届くそうです。その音がフッと途絶えたときが、その飛行機は海に突っ込むなり、もしかして船に体当たりするなりして壊れた瞬間です。そのときにパイロットは死んでいます。死ぬと同時に、そのパイロットは使命を果たした、役割を果たしたと判断されるのです。
山崎幸雄という人は21歳で死にました。まだまだ生きたい人でした。勉強もしたかったし、きっと恋人だっていたはずです。友達はたくさんいたでしょう。お酒を飲んでは楽しくやってたと思います。
でもその人は、一歩前に出てしまって、ちょっと仲間の中で飛行機の操縦が上手になるのが早かったおかげで、4月29日、日本軍が沖縄に船や飛行機を送れなくなる直前に、日本海軍が最後の最後の死にもの狂いの戦闘を繰り広げている中で、ピーーーという音が消えたときに死んだんです。
どうだったろうね。もしも君達が、ゼロ戦という飛行機―――飛行機だけみると格好いいんだよ、とっても優れた飛行機なんだよ―――に独りで乗っていて、帰りの燃料は積んでいない、お腹には爆弾を抱えている、そしてアメリカの船からバンバンバンバン撃たれている。もしかしたら飛行機はもうアチコチに穴があいているかもしれない。火が出ているかもしれない。自分もケガしてるかもしれない。でも一生懸命体当たりしようと思って、操縦桿を一生懸命押さえている。そのときに何を考えているだろうね。泣くことができるだろうか。
分からないよね。誰もみたことないんだもの。
勇気があること、なのかもしれない。格好いいこと、なのかもしれない。けれども、嫌だね。本当に嫌だね。
今だってイラクや、その他いろんなところで自爆テロがあるね。クルマに爆弾積んで突っ込んだりとか、自分の体に爆弾くくりつけて人々の中で爆発させたりとか。あれも特攻隊みたいなものだよね。今も特攻をやってるんだよね。
イラク人の人たちや、世界のあちこちでイスラム系の人々が自爆テロをやっているけれど、あれも「勇気があるならやれ。死ぬのは名誉だ」と思ってしまってやってるんだよね。
君達はいま11歳か12歳。これから10年たつ間に、もしもいろんなことが起こって、まわりのすべてが戦争の空気になってしまったら、もしかしたら君達も一歩前に出てしまうかもしれないんだよ。
そうならないようにしてくのが大人の仕事です。大事なことです。そんな時代にしないために、大人たちは全力を尽くさねばいけないんです。けれど君達も、こんなことは決して格好いいことではないのだ、飛行機が落ちてゆく中では人が死んでゆくのだ、ということをちゃんと胸に置いてほしいんです。
卑怯者といわれても耐えて、死ぬことは選ばない。生き抜くことを選ぶ。そういう人間になってほしいと私は思います。
君達の本棚でゼロ戦の本をみつけました。ゼロ戦は、第2次大戦中の日本の戦闘機としては、というより日本の歴史を通じてもっともたくさん造られた戦闘機です。3千機くらい造られたゼロ戦は、戦争が終わる頃にはほとんど残っていませんでした。ほとんどが墜落したということです。つまり3千機のほとんどが墜落したということは、3千人近いパイロットが死んだということです。
他にもたくさんの飛行機がありました。何万機という飛行機があったけれど、そのほとんどがなくなったのだから、何万人というパイロットが死んだということになりそうです。
そのほかにも大変なことをやらかしました。回天というの知ってるかい? そう人間魚雷・回天。これは魚雷です。潜水艦じゃなくて魚雷。人間が乗れるスペースができている魚雷なんです。魚雷は海の中の爆弾です。それに人間が乗って操縦して、船にぶつかろうというのです。回天も実際に使われて何人もの人が死にました。
桜花って知ってるかい? 桜花はロケット飛行機です。少し大型の爆撃機のお腹に吊り下げられて目的地の近くまで行って、そこで爆撃機から放されて、そこからロケットエンジンから炎を吐いて目標に向かって行く。桜花の頭にも爆弾なんです。パイロットが一人乗っているんです。そのまま突っ込んで行くんです。
桜花には、基本的には着陸のための装置がついていません。着陸する必要がない飛行機だからです。
これらのことがとてもひどいことだと気づくまでに、私はとても時間がかかりました。だって、飛行服の叔父さんが操縦席の脇に立っている写真、格好いいんだもん。子ども時代の私はいつも、家の鴨居に飾られたこの写真を眺めていたんだもの。叔父さんのサーベルや軍服や軍帽も、毎日のようにみていたんだから。
パイロット、格好いい。飛行機、格好いい。格好いいなあと憧れてました。
でも、この叔父さんが死んだ年齢に近づいたころになってやっと、そんなことじゃないんだなあ、と気づきました。今でも飛行機は大好きです。とっても好きです。だけども、君達の手のコピーにある「栄光の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)」の「栄光」という言葉をみたときに、とても腹が立ちました。たしかに優れた戦闘機ではあったけれど、これでどれだけの若者が死んだのか。そのことを思ったら「栄光」なんて言葉は使えないはずなんです。そういうことを思うととても腹が立ちます。

 はい30分経ちました。30分という時間は、この21歳で死んでしまった山崎幸雄という人のことを語るには短すぎる時間でした。でもこの30分間をいただけて、私は、よかったな、と思います。ほら、この人はいってたでしょ。私のお兄さん、1歳半だったお兄さんを抱っこしていってたでしょ。ボクという人間が生きていたということを、この子に伝えてくれ。そういってたでしょ。
 そんな彼の思いを、私もみんなに伝えることができたと思うんです。この人が生きて死んだということを伝えられて、とてもよかったと思います。
 ありがとうございました。

教師 今朝のニュースのトップも、イラクの自爆テロだったね。今日の映像はすごかった。爆発する瞬間がとらえられてました。さっきの話しにあったように、そのバスの中に誰かがいるわけです。そういうニュースが当たり前のように流れている。
山崎 質問させてもらっていいかな。○○君は飛行機が好きだよね。戦闘機なんかがとっても好きなんだというのは分かる。いま、飛行機についてどう思っている?
生徒1 F―15とか、戦争に使われるときには、テレビとかで見たけど、そのときにはあなまり好きじゃない。
山崎 そうだね。でも、たしかに格好いいよね。
生徒2 山崎さんのお父さんは、戦争に行ったんですか?
山崎 私のお父さんはね、特攻隊で死んだ叔父さんよりも6歳ほど年上です。私のお父さんも戦争に行きました。陸軍で中国に行って、そして右腕を撃たれて帰ってきて、右腕は生涯ちゃんと使えませんでした。本当は右利きなのに、左手で字を書き、左手で食事したりしてました。
 だから私のおジイちゃん・おバアちゃんは、男の子3人のうちの一人は戦争で障害者になり、一人は死にました。次男だけは無事でした。なぜなら、中学生のときに親戚の機械工場でアルバイトしていて、事故で右手の親指と人差し指を失ってしまったからです。だから鉄砲を撃てなかった。だから兵士になれなかった。今になってみればとってもラッキーな話ですが、当時は肩身の狭い思いをしたようです。
生徒1 日本軍が、イギリスのプリンス・オブ・ウェールズを撃沈したのをマンガでみたけど、実際にもしもその船に自分が乗っていたとしたら、すごくイヤだというか…。
山崎 うん、イヤだね。プリンス・オブ・ウェールズも大きな戦艦だったけれど、第2次世界大戦中で世界でもっとも大きな戦艦といわれたのは、大和と武蔵だよね。どちらも乗組員は3千人近かったのじゃないかな。両方とも沈没したよね。両方とも3千人近くのほとんどが死んでしまった。生き残りはすごく少ない。すごいね、2千人以上がいっぺんに死ぬんだよ。
 あのニューヨークの貿易センター、ツインタワービルが両方ともつぶれたでしょ。あのときもたしか3千人以上が死んでしまったね。大変な出来事だよね。
 ああゆうのをみるときも、あ、ビルが潰れてゆく、というふうに感じるのではなく、あ、船が沈んでく、と感じるのではなくて、あの中で人々がつぶれていく、人々が叫んでいるということに気づかないといけないよね。
生徒3 特別攻撃隊でいちばん怖い思いって、どんな思いだと思いますか?
山崎 どんな思いだろうね。それは、みんながそれぞれに想像するしかないのじゃないかな。たしかに、飛び上がってからいよいよ突っ込むまでの時間も怖いかもしれない。もちろん突っ込む瞬間も怖いかもしれない。でも、もしかしたらもっと怖いのは、特攻隊に志願する者は一歩前に出ろ、といわれるその瞬間かもしれないね。そのときのほうが怖いような気がするかな。離陸してしまったら、もう死ぬしかない覚悟が決まるかもしれない。最後は、もうそういう意味じゃ…、いや、怖いだろうけどさ…。分からないな、分からない。
 最後に。この山崎幸雄さんは、茨城県の霞ヶ浦というところで操縦の訓練を受けたのだそうです。特攻隊に出撃するときは、まず霞ヶ浦から鹿児島まで飛ぶんですね。そのときに、特別に許されて、東京の高輪というところにあった自分が生まれ育った家の上を飛んで行ったそうです。そのときに翼を振って挨拶したそうです。家族はそのことを前から聞いていて、家族はそれを見送ったそうです。
 死ぬとき、最後の手紙を書きました。借金なし。女性関係一切なし。父上、母上、ありがとうございました。
 そして死んじゃったのだけど、特攻隊で出撃したときには海軍少尉だったんです。死んで、バカらしいよね、なんていったら怒られちゃうかもしれないけど、二階級特進ということで大尉になりました。そして、靖国神社に合祀されました。4月29日、彼の死から4ヶ月経たないうちに、広島や長崎に原爆が落ちて、そして戦争が終わりました。
 その翌年、1946年の4月に、彼の仲間、友達、教官などが集って法要を行なったそうです。それは大変に沈痛なものであったと、山崎幸雄さんの親友・斉藤教蔵さんは、私に送ってくださった手紙に書かれています。
 誰一人、特攻隊で死んでよかったなんて思ってはいなかった、ということだと思います。
 あらためて、ありがとうございました。
教師 山崎さんのお父さんが中国で負傷して、でも帰ってきました。帰ってこなかったとしたら、君達のクラスメートである山崎星慈君もいません。だから、君達がここにいるのは、おジイちゃんやおバアちゃんが戦争で死なないでいてくれたからです。

【子ども達の感想文】(抜粋。整文)

(女子)「特攻志願者は前に出ろ」。断れたらすごい勇気があると思う。私がもし男で、断ったら「非国民」といわれる状況でいわれたら、私も前に出てしまうと思う。戦没後に大尉に昇進してもうれしくない。靖国神社に祭られてもうれしくない。でも、無駄な死なんていったら失礼だよね。私は、戦没者の方々の分、戦争を学び、伝えたい。

(男子)特攻隊というのは、相手の戦艦とかを壊すだけだと思っていたけど、飛行機の中にも人がいるってことを忘れていた。今日の話の中で、もしも星慈のおジイちゃんが中国から帰ってこなかったら星慈はいない、と聞いて、もしボクのおジイちゃんとかが生きていなかったらボクはいないと思うと、何か怖かった。ボクは「一歩前に出ろ」といわれて出ないでいられるかな。出てしまうと思う。何でかな。話を聞いていて悲しくなった。

(女子)幸雄さんが死んでしまったことを考えて泣くことができる星慈のお父さんはすごいと思う。今でもこうやって考えている人は少なくないし、少なければ戦争が起きてしまうと思った。「一歩前に出ろ」といわれたら、絶対に出てしまうと思います。死にたいなんて思う人はあまりいないし、幸雄さんも絶対死にたくなかったと思う。死んでしまってから大尉に上げられたって意味がないし、死んで偉いなんていわれてくないと思う。そんなこと失礼だと思う。

(男子)幸雄さんは絶対死にたくなかったと思う。だって、死にたかったら、自分の甥っ子にわざわざ「私という人間がいたことをこの子に伝えてください」なんていわないと思う。自分が死にたくないのに死んでしまうのが戦争だと思う。ゼロ戦に乗ると、当時はもう死ぬのと同じだから、すっごくむなしい死に方だと思う。

(男子)星慈の大叔父さんが特攻隊だったっていうのは知っていたけど、こういうような悲惨なことがあったっていうのは知らなかった。かわいそうだなと思った。特攻隊に行かせるのもひどいと思うけど、操縦の訓練をたった1年で終わらせて特攻隊に行かせるのはひどいと思った。

(女子)一歩出る瞬間のことが胸にグッと突き刺さる思いでした。脅しみたいに思えた。心にしみる話だけど、近くにこのような方がいたんだと思うと、今のイラクなどが怖い。生き抜くための心は誰にもみせなかったのかな。もっと自分の考えたことをしたかったんではないかな。ピーーーっという音が消えた時など、現実を言葉にするのはむずかしい。今までで一番心に響いた。

(女子)戦争に出ることが良いことで、出ないことがダメなんて、絶対におかしいと思う。一歩前に出るなんて普通じゃできないと思ったけど、まわりの人からそんなこといわれたら出るしかなくなっちゃうと思った。戦争はそこまで人を変えるんだ。すごく悲しくなった。戦争では幸雄さんのような人がいっぱいいるんだね。どうして戦争に行くことが名誉なのだろう。いつまで戦争を続ける気だろう。

(女子)幸雄さんが最後に、星慈のお父さんのお兄さんに伝えたかったことを、星慈のお父さんが私達(学年みんな)に幸雄さんを伝えて、幸雄さんの願いが届いたことは、絶対にというか、やっぱりものすごいことだよね。

(女子)話を聞いていて、私はとにかく辛かった。いろいろやって今まで幸せだった人が、どうしてこんなめにあわなくちゃいけないのか。幸雄さんは一歩出なければいいのにって最初は思ってけど、一歩出ないと卑怯っていうことを教えて人がいるなんて許せない。二度とこういうことで、幸雄さんみたいな犠牲者は出してほしくない。日本だけでなく世界でも。

(星慈)前にも聞いたことがあったけど、あらためて、戦争は怖いと思った。沖縄の慰霊碑に名前はあるかな? でも、ボクの大おじさんは、何で一歩前に出ちゃったのかな。
⇒⇒10月下旬、星慈らは沖縄学習旅行の折に、平和祈念公園『平和の礎』にて「山崎幸雄」の銘をみつけた。

「未熟な夫」と、どうつきあうの?2004. 05. 14 Fri
プロローグ/「成長しない夫」に困っているあなたへ

「最近の女性は、仕事さえしていればよいと考える未熟な夫を、冷めた目でみ始めています」と、ある女性から届いた手紙の中に書かれていました。
似たような思いを抱いている女性が、今では圧倒的多数派になっているのを、カウンセリングという現場にいる私は知っています。あんな男といつまでも一緒にいられない、人生棒にふりたくない。ついついそう思ってしまう妻たちが、今では多数派となってしまったと感じています。
たとえば講演会などで「私は間もなく“未熟な夫”をテーマにした本を書くつもりです」と投げかけると、会場は間違いなくドッと沸きます。会場には男性の姿もあるのですが、その男性たちですらいくらか複雑に表情をゆがめながら笑います。
男性一般が未熟であるというとらえ方。それがこの国の女性たちにとってはごく当たり前であり、男性たちの中にも同意せざるを得ない空気が漂っているのでしょう。男性である私にとってはいささか悔しいことですが、それが現実です。
妻と母親とを重ねてしまう男性の未熟さ。
(自分の母親代わりである)妻を奪われたと感じて、自分の子どもに嫉妬する男性の情けなさ。
女性たちはあそこでもここでも、その種の話題をやり取りしては「ウチだって同じよ」と笑いながらうなずき合っているのです。
              ※
一方で、古典的なお説教めいた教訓も、いまだにときどき聞こえてきます。
「未熟な夫を許し愛し、子どもを育てる気持ちで、夫のお母さんになってしまえばよいのです。すると夫が育って大人になる。そうすれば、あなたも幸せになります」
私もかつてはそんなお説教めいた気持ちで妻たちにアドバイスしてしまった時期がありました。しかし数多くの妻たちの嘆きを聞き続けているうちに、すっかり気が変わりました。
夫のお母さんのつもりで過ごせば夫が育つ? 大人になる?
そんなのウソだ! 今は断言します。
子どもなら受容し甘えさせることで自立への土台が整う。心理学的子育て論における大原則の一つです。しかし未熟な夫は、許し受け入れ甘えさせたからといって、ほとんどの場合に成長してくれません。大人としての自覚を深める可能性は、ほぼありません。論理的には可能であるとしても、それ以前に妻たちが疲れ切ってしまうのがオチです。妻が疲れ切ってもなお、甘ったれ続けるのが未熟な夫です。
では、どうしたらよいのか。未熟な夫とどう向かい合ったらよいのか。
その問題を少しでも解き明かそうとするのが本書の目的です。
妻がどのように対応したときに、未熟な夫が大人の男性へと踏み出し始めるのか。幾つもの実例を観察させてもらっているうちに、私は「なるほど、ツボはここだな」と実感できるようになりました。もちろん、そのツボについてもお伝えします。

それでは、本論に入る前に、まずは「夫の未熟度」をチェックしておくことにしましょう。
以下の各項目をチェックし、該当項目の総数で判定します。

【あなたの夫の未熟度チェック】
(チェックしたい方は、どうか本を買ってください/ヒゲ)
 
あなたの夫は、以上の20項目のうちの幾つに該当していたでしょう。おそらく結果は極端に二分されるはずです。ほぼゼロに近いか、そうでなければ10項目以上になるでしょう。自立レベルの高い夫は妻子に負担や不愉快を感じさせず、未熟夫は生活の多くの場面で依存的であり甘ったれだからです。
ゼロに近いなら、自立レベルの高い、成熟した男性であるとみてよいでしょう。だからといって必ずしも夫婦関係がよいとは限らないかもしれません。しかし父親としては合格点をつけられる夫に違いありません。
該当項目が10±3くらいだとしたら、この国の現状においてはまずまず標準的な未熟夫だと思われます。その程度であれば、あなたがツボを押さえた接し方を重ねてゆくことで、大人の男性として成長してくれる可能性が高いとみてよいでしょう。捨てるにはもったいない、潜在的クオリティーの高い“素材”かもしれません。
該当項目が15程度、またはそれ以上だったら、今後の努力は徒労に終るかもしれません。夫は成長しないまま、あなただけが女性としての成熟を重ねてゆく未来が待っていると思ったほうがよさそうです。その末に待ち構えているのは、家庭内離婚、濡れ落ち葉の夫、熟年離婚、定年離婚などでありがちです。

MOTHER〜ジョン・レノンの悲鳴2004. 04. 18 Sun
 母子癒着は日本人の依存癖、あるいは甘ったれのもたれ合い癖が招く弊害である、かのごとくにもいわれがちだ。けれど本当にそうなのかな。たしかに依存が強い甘ったれ合いの人間関係は心地よいものではない。その傾向が日本社会では様々な層に蔓延していると指摘されると、なるほど、とうなずきたくなる。
 しかし本来が「子が母に執着する」「人が母を求め続けてやまぬ」のは、あまりにも当たり前のことだし、日本人だからの特質でも弱点でもない。
 ビートルズを解散して、自己に焦点を当てて唄うようになって以降のジョン・レノンは『MOTHER』でこう訴えている。

  Mother, you had me, but I never had you.
I wanted you, but you didn’t want me.
So, I just gonna tell you.
Goodbye, goodbye.
Mama don’t go, Daddy come home.
Mama don’t go, Daddy come home.

母さん、そりゃ、あんたはいいさ。けれど、俺は辛かった。
俺はあんたがいなけりゃ生きられなかった。
なのに、あんたは俺をふり返りもしなかった。
だから、もう、さよならだね。あきらめるよ。
  ああ、だけどママ、ボクを置き去りにしないで!
  お願いだから、パパ、帰ってきてよ!

 ジョン・レノンの母は、離婚し、ジョンを身内に託して置き去りにしたという。ジョンは置き去られたトラウマを生涯にわたってみつめ続けて、きっと、ついに傷の癒えぬままに他界している。しかし、ジョンの心の傷は、彼のナーバスすぎるという性格に影を落とす一方で、深い繊細さと、激情と裏腹の優しさをも生み出したのだろう。
 母の愛を求めてやまない。母の愛がなければ心が荒み生きられなくなってしまう。それは人類・生命共通の心理=心のカラクリに違いない。
 母が、父が、子の心に寄り添うよりも自分の衝動や欲求や要求を優先するとき、子の心は置き去りにされる。「そんなにいうことを聞かないなら、もういいから勝手にしなさい!」
と歩み去られるとき、子の心は「もう息をすることすらできない」ほどの孤独と恐怖に震える。
 孤独と恐怖に翻弄されたあげくの叫びは、ときとして激しい暴力にもなる。暴力という切ない甘えでしか訴えられない感情は、子ども達の心にだけではなく、生きても生きてもいまだに母を求め続けている大人の心にだって渦巻く。
 暴力のあげくの顛末。一方は言動により重ねてきた心を置き去るという暴力。他方は孤独と恐怖にさいなまれたあげくの肉体の暴力。そのあげくに散り散りに砕けた一つの心を思いながら、祈ることしかできないときがある。

お金遣いの荒さ・多額な小遣い要2004. 01. 29 Thu
「高額の小遣いを要求する」
(『児童心理』1999年2月臨時増刊号「思春期のゆらぎと危機」に掲載)


多額な小遣いは信頼回復の手立てとなり得る

 不登校およびこれに伴いがちな引きこもり状態、または非行傾向にある子どもは、親に対して、しばしば常識的感覚に照らして多額にすぎると思われる金銭を要求することがある。
 こうした状態への対応の一つを、私が担当した実例に即して紹介する。
 中学二年だった宏(仮名)は、不登校傾向がみえはじめる以前より、担任教師から友人関係や行動面での問題を指摘されていた。これに対して、母親が中心となって矯正を目指した規制を加えたところ、日常行動は一般にいわれる非行の様相をますます強め、不登校も目立ちはじめ、ほどなくほぼ完全な不登校状態となった。
 母親はそれ以後に心理カウンセリングを受けるようになり、「親子関係の改善こそが最優先課題である」と理解したところから、あらゆる面で受容的な態度を示すようになった。その結果、宏は家庭外の行動にこそ目立って急速な改善はみせなかったものの、母親との関係には安心感を強め、母親に対する言動も落ち着き、それまではほとんど語らなかった学校・教師・友人などへの思いをも、母親に対してのみもらすようになった。
 他の多くの例でもそうであるように、宏の金銭的要求がきわだって増大しはじめたのは、その時期からである。
 この時点で母親は次のように語っている。
 「毎日のように数千円のお金をほしがります。ときには万単位のお金をほしがります」
 カウンセリングにおいて「要求する金銭は無条件に機嫌よく渡したほうがよい」との説明を受けていた母親は「できるかぎりそうしよう」と心がけてはいたのだが、つい躊躇してしまう場面もしばしばだった。
 「こんな調子で要求をのみ続けていたら、際限なくエスカレートしてしまうのではないかお金にだらしのない人間になってしまうのではないか」
 ごく常識的には母親の懸念もうなずかれやすいだろう。しかし現実には、母親が要求にこたえるのを躊躇するたびに宏は荒れ、暴言も募り、改善方向にあった非行行動を一時的にとはいえ、強めたのである。

お金もまた愛情の形。愛情注ぎはしつけより優先されるべき

 お金もまた愛の形の一つである。子どもの心理治療の経過においては、言葉や行動での愛情が伝わりにくく、金銭によってこそ親の愛情をより有効に伝えられる場合が少なくない。この、一般には理解されにくかった観点も、最近では以前よりも広く受け入れられるようになった。宏の母親のように、金銭の要求に躊躇するなら即座に悪化する経過を現実に経験すれば、「お金もまた愛である」とする見方への疑念も解消されやすい。
 そこで「お金の遣い方へのしつけというものが必要なら、そのチャンスは必ず訪れます。しつけが必要だとしても、今はそれ以前の状態ですね。治療的な意味での愛情を惜しみなく注ぐべき時期です。したがって宏君の年齢に即して多額にすぎると感じるとしても、無条件に与えるほうがよいですよ」とアドバイスしたところ、母親はそれを受け入れた。その結果、この親子関係は急速に良好なものへと推移し、それを追って非行傾向も消滅へと向かったのである。
 その後のことを母親は次のように語っている。
 「カウンセリングでアドバイスされるまま、無条件にお金を渡す。実をいえば、私は最後までそれでいいとは信じきれないでいました。でも他方では、お金を手渡すたびに宏の心が開かれ、心理的安定が深まってくるのも感じていました。
 今もまだ、年齢に照らせば多額といわれそうな要求をします。しかし一時期に比べればすっかり落ち着き、親の財布の具合も配慮してくれるようになりました」
 私の所属する相談施設のカウンセラーが過去に担当したなかには、中学生の男子が「現金で耳をそろえて30万円わたせ」と要求した例もある。この要求に母親が即座に対応したところ、その中学生男子は次のようにつぶやくだけでお金は受け取らなかったという。
 「いくら俺を信用しているからって、こんな大金を平気で渡すなんて、親としておかしいんじゃないか?」
 この場合の「30万円」は最後の愛情確認であったと理解できる。それ以前に「お金」に託された母親の愛を感じ取れるようになっていたその子は、これを契機に本格的な心理的安定を取り戻すことになった。

高額を要求するのは、過剰だった「我慢」への反発でもある

 多額な小遣いの要求は、男女を問わず、また小学生も高学年以上となれば頻発しがちである。また、例に引いた、いわゆる非行傾向をみせる子どもの回復期のみならず、引きこもりからの回復期にもみられることを確認しておくべきだろう。
 筆者としても、一般にいわれる「子どもの小遣いは適切な範囲に制限し、我慢することも教えなければならない。それはしつけの要点である」とする意見を全面的に否定するつもりはない。しかし親や周囲の大人による金銭面をも含む「過剰な我慢の強制」が幼児期から継続的であった場合、大半の子どもが深刻な心理的不調に陥るし、それを解決に導く過程では、子どもが過剰であった「我慢」から自身を解放し、同時に親の愛情をたしかめるために多額な金銭を要求するほかない時期もあると痛感している。
 念のために記すなら、子どもは親の経済力を直感的に見抜くのが通常であり、金銭要求の増大が、親として対応できる限界を超えるのは例外的な場合のみだと考えられる。

アルバート・アインシュタイン2004. 01. 06 Tue

 アルバート・アインシュタイン。
20世紀初頭に偉大な物理法則「特殊相対性理論」を発表し、その後には「一般相対性理論」を発表し、それまでの科学・哲学・思想に一大変革をもたらし人。以後の科学および文明の成り行きにのっぴきならない影響を与えた人。人類が宇宙へ飛び出すことを可能にした人。
アインシュタインはそれほどの天才であり、科学に精通しつくしていた。それだけに、実は科学の限界をも熟知していたといわれる。

 われわれに、自然の永遠の秘密を、たとえほんの少しでも、より深く見させてくれる考えを見出す人は、神の大きな恵みを与えられたのです。それに加えて時代の最良の人々から評価を共感と励ましとをさえ受ける人は、一人の人間にはほとんど背負いきれないほどの幸福を得るのです。
(『アインシュタイン〜創造と反骨の人』/B・ホフマン著/鎮目恭夫・林一共訳/河出書房)

 アインシュタインが記した言葉だ。私は、この天才物理学者が「神の大きな恵み」と記し、その恵みがあってこそ「幸福を得る」と記しているのを初めてみたとき、一種意外の感に打たれたのを覚えている。
 物理学者といえば、物と物とのかかわり、物と物とが動き合うメカニズムを解き明かす者。意思的なナニカがかかわる余地などない純粋な運動法則をみきわめる作業をする者。私はそう信じていた。ところが、当の物理学者、それも大御大が「神の大きな恵み」などという“非科学的な表現”をしたことに、若いころの私は眩暈さえ覚えていた。
 今になれば分かる。彼は直感していたのだ。物理の世界を追及し続けただけに、人間の頭脳ではどうにも推し量ることのできない大きなナニカを感じざるを得なかったのに違いない。
 科学では解明できないナニカ。多くの人々が「神」と言い習わしてきたナニカ。この世界、この宇宙の原点にあって、この世を動かしている原理そのもの。それは意思的に取捨選択するわけではなく、あるがままをあるがままとして運行させながら、しかし、すべてを原初から支配している。
 私たちの心は、常にその原初を求めて彷徨い続けてきたのに違いない。そこにこそ魂の原点も潜んでいると直感しているに違いない。
 私は、ああそうなんだ、と感じたことがあった。つまるところ、私の心は、こんなに小さくはあるけれど、それでも「神」の出張所なのだ。
 アインシュタインのいう「神の大きな恵み」を感じるのは、つまるところ心。あ、そうか、心ってのは神の恵みの受け皿なんだ。
 私たちはみな、誰ひとりとして例外なく、ビッグバンに始まるとされるこの大宇宙の150億年の歴史があって生まれ出たのだ。私の歴史も、あなたの歴史も、すべては150億年を営んできた大宇宙の、その原点につながる臍の緒の末端なのだ。
 であれば当然のこと、私らの心の奥底には、150億年めんめんとくり広げられてきた出来事のすべてがしっかり記されてもいるはずだ。

 B・パスカル。17世紀、フランスの科学者・哲学者。「パスカルの原理」の発見者であり、大気圧の単位「ヘクトパスカル」に名を残す人。彼は、あの有名なパンセに記している。
 「人間は考える葦である」
 人間は、嵐に吹かれればなぎ倒されてしまう水辺の葦のように、はかなく小さく弱々しい存在でしかない。しかるに、この葦は無限の時の流れも無窮の空間をも超えて、はるかかなたに、はるか昔に、はるか未来へも思いを馳せずにはいられない。
 しかしまた「そこにこそ人間の悲惨がある」ともパスカルは記している。
人間はかくも小さな存在でありながら、無限と無窮に思いを馳せずにはいられない。思いを馳せながら、自分の小ささを思い知らされる。そればかりではない、空のかなたに無限と無窮を思うとき、人間は自身の内面にも内宇宙としての無限と無窮とが存在することに気づかされてしまう。

ゲシュタルトの祈り&ニーチェの言葉2004. 01. 06 Tue

『ゲシュタルトの祈り』
わたしはわたしのことをやり あなたはあなたのことをやる
わたしはあなたの期待に応えるために この世にいるわけではない
あなたはわたしの期待に応えるために この世にいるわけではない
あなたはあなた わたしはわたし
もし偶然にお互いが出会えれば それは素晴らしいこと
もし出会わなければ それはそれで仕方がないこと


 フリードリッヒ・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche・1844〜1900年/ドイツ/「神は死んだ」と論じた実存主義哲学の先駆者である哲学者)はいいました。
 「あらゆる人間はあらゆる時代と同様に、今でもまだ奴隷と自由人に分かれている。
 なぜなら、自分の一日の三分の二を自分のためにもっていない者は奴隷であるから。
 そのほかの点では、たとえ彼が政治家・役人・学者など何者であろうとも同じことである」(著作『人間的あまりに人間的』より)

山下清の二等兵2004. 01. 06 Tue

(2003年夏)

つまるところ映画などに描かれたそのままが事実だったようだ。
兵隊の位でいうと二等兵。白馬村の峯村洵先生は、はるか昔のその1週間ほど山下清画伯のお世話係を勤めることになった。
宿が気に入らなかったのか、眠るのは学校の教室。机をいくつか寄せてベッドにした上に眠ったのだとか。二等兵はいわれるがままお付き合いする。位が位だから机ベッドに眠れる身分ではなかったとも聞く。
ある一日、画伯はタンポポを描くことに熱中した。ずっと、タンポポばかりを、例の丹念な感覚でコツコツコツコツ、丸一日をかけて幾枚もの紙に描いた。多分そういう話だったと思い出す。
いやはや、峯村先生がこの思い出話をしてくださった折、私はすでにかなりの酔い心地。話のディテールが定かではない。したがって今日のところは大まかな話。峯村先生にはあらためてお話をうかがうしかない。
昔のその日に戻って、タンポポの絵は、やはり見事なものだったらしい。若き日の峯村先生は、その大した絵をみつめながら、この偉大な画伯のお世話係であることに喜びを見出していたことだろう。
ところが画伯は、せっかく描き込んだタンポポの絵を、細かく細かく破いてしまった。黄色い花の絵が、黄色い細々な紙切れになってしまった。いったいどうしたことか。峯村先生も、画伯の奇人ぶりは聞いていた。けれど驚いた。
しかしその先の話が素敵だ。山下清画伯は、細かく切り裂いたタンポポの絵、つまりは黄色い花びらの数々を、両手で空に投げ上げ、白馬の風に乗って舞い降りてくる様をニコニコしながら見上げて、両手を叩いて喜んだ。
その一瞬の山下清画伯の表情。きっと無垢のまま、喜びのままの表情だったのだと想像する。峯村先生の脳裏には、今もその表情が焼きついているのが分かる。
「あのとき、山下清は、こうやって空に舞い上げて、舞い散るのを見上げながら、こうやって手を叩いて。うれしそうな顔でなあ」
そう語ってくれた峯村先生の顔は、きっと、そのときの山下清画伯の顔に似ているのではないか。私はそんなふうに感じながら、峯村先生の話に聞きほれて、またも酔いを深めるお酒をいただいた。

心とは何なのか2004. 01. 06 Tue

(未発表原稿)

● 心、とは

 心とは何なのか。
 心はどこにあるのか。
 そもそも「心」と呼ぶべきものが本当にあるのだろうか。
 心理カウンセリングルームを主宰し、他方では心理健康ジャーナリストとして心身の問題を考え続けてきた私ですが、実のところ、今もなお「心」というものを捉えきれずに過ごしています。
 東京工業大学大学院教授・橋爪大三郎博士は『「心」はあるのか』とタイトルした著書で、『「心」なんてない』というタイトルで講義しようと企てたことがある、と記しています。
 私は、彼の気持ちが分かるような気がします。カウンセラーとしてさまざまな人々とその心に接してきて、心とはつまるところ体そのものなのではないか、とさえ考えるようになりました。
 心を軽視したり無視しようというのではありません。「体の状態から離れて心を語ることは無意味だ」と思えてならないのです。
 そもそも「不安定心理状態または病的な心理状態」とされるものは「身体状態に対して適切な働きかけを行うことだけで改善する」場合も少なくありません。たとえば心理カウンセリングの過程に自律訓練法(体の状態に働きかけて心身を調整するトレーニング法)を用いるカウンセラーであれば「心の状態とは、つまるところ自律神経系の状態とほぼ同義である」と痛感する場合さえ少なくないはずなのです。
 心配・不安・恐怖などがあって心理状態が不安定なクライアントを自律訓練法によって呼吸と心拍の安定へと導くなら、心配・不安・恐怖の原因となっている状況は少しも変化していないにもかかわらず、クライアントは一定の心理的安定を得ます。
 心配・不安・恐怖の実体は、一面において「速い心拍と浅い呼吸を感知した意識」だと表現してもよいのではないか。私はそうも考えています。
 ところで、心理カウンセリングは「長い道のり」になりがちです。ときには数年以上にわたる長すぎる道のりにもなりかねません。そこまでは長引かないとしても、心理カウンセリングのみによる心理状態の改善は、多くの場合にごくゆっくりとしか進みません。目だった改善のないまま行きつ戻りつをくり返す場合もあります。
 心理カウンセリングによって心理状態が改善してカウンセリングを終わりにすることを、私たちは「終結」と称していますが、終結までに長期間を要するクライアントには、ほぼ共通して感じ取れる印象があります。
 「心よりも体のほうが治りたがっていない」
 そんな印象を受けます。
 表現を替えるなら「身体が、ダイナミックに活動する健康な心・精神を支えられるほど健康ではないがために、心・精神が不調が改善しない状態」が、かなりの比率でみてとれるのです。

● 「日本人の心」は特別か。

しばしば「日本人の心」という言葉を耳にします。どうやら、日本人には特有の「心」があり、それは他の国々や地域の人々の心とは趣を異にしているといった思いの上で語られる言葉のようです。
なるほど、日本には日本ならではの風土があり、その風土が培った情感といったものがみられるに違いありません。その意味で「日本人の心」を意識するのは、当然といえば当然なのでしょう。
しかし「日本人の心」がいわれるときには、ちょっと独りよがりの誤解も語られがちです。
「日本は四季が豊か。だから日本人の情感は豊かなのだ」
実をいえば、私も昔はこれに類する単純な“信仰”にとらわれていました。日本人は情感において優れているのだ、日本人は心が豊かなのだと、思えばずいぶん身勝手に考えていたのです。
ふた昔近く前、アメリカ東海岸北部の町・ボストンを訪れたときです。ボストンからニューヨークまでの特急列車のチケットを買いに行ったとき、その駅の一角に大きく飾られている看板をみた私は呆然としました。赤い色の目立つ絵が描かれたその看板には、日本語にするなら「紅葉狩り列車で秋を楽しもう」といったコピーが記されていたのです。
当たり前のことです。ボストンあたりは、東京に比べればかなり北に位置するものの、四季がはっきりした土地です。ボストンに暮らす人々が、四季折々の風情を楽しまぬはずがありません。
「なんだ。アメリカ人だって情感は豊かじゃないか」
そんな当然すぎるほどに当然のことに気づいて、私は呆然としていたのです。
私たち日本人は「日本人の心」の豊かさといった優越感をどこかで感じていながら、しかしその実、欧米の人々の情感の豊かさにずいぶん影響されてきました。音楽や絵画をはじめとする芸術はその最たるものでしょう。
分かりやすいところでいえば、私たち日本人のほとんどが唄ったことのある懐かしい名曲『蛍の光』は、もとをただせば『AULD LANG SYNE』というスコットランドの民謡です。驚いたことに♪ちょうちょー、ちょうちょー♪と唄う『ちょうちょう』はスペイン民謡です。♪は〜にゅ〜のやどーは、わがーや〜どー♪と唄う『埴生の宿』はイギリスのビショップという人の作曲です。
このように、まるで「日本の心」そのままのように思われがちなメロディーの中には、欧米の風土が育んだものが少なくありません。
 「誰が風をみたでしょう」と始まる歌、覚えているでしょうか。誰にも風はみえないけれど、風は木の葉をふるわせて通り抜けていく。そんな内容の歌。大正時代に草川信という人が作曲しました。
では、この曲の作詞者は誰かというと、クリスティナ・ロセッティというイギリスの女性です。その詞を、数多くの唱歌ほかを作詞した名作詞家・西條八十が訳詞して♪だ〜れーがーか〜ぜーをー♪と唄うあの歌が誕生したのです。
 「日本人の心」は決して特別なものでも、とくに他の国々の人々に比べて優れているのでもなく、あらゆる国々の人々が情感豊かであるように、日本人の心も情感豊かであり、同じようなメロディー、同じような情景に感動し感じ入るということでしかありません。むろん日本の風土が育んだ独自性もあるのでしょうが、それはわずかな部分でしょう。そのわずかな独自性にしたって、沖縄から北海道まで、各地域でそれぞれの風土ごとに異なるはずです。

● 果たして「心」の存在は自明なのだろうか。

「日本人の心」も「諸外国の人々の心」も、大要においては同じであるとして、それでは「心」というものへの認識は、どの国や地域の人々においても同じなのでしょうか。
ちょっと調べるだけでも、そうではないらしいことが明らかになってきます。
たとえば英語の辞書を引いてみて、日本語の「心」に相当する単語を探してみると気づきます。英語には、日本語の「心」にぴったり合致する単語がありません。
和英辞典で「心」に相当する英単語をみると、次の4つが主なところとして並びます。
HEART MIND EMOTION SPIRIT SOUL
この中で日本語の「心」にもっとも近いのはHEARTでしょうか。しかし英和辞典でHEARTを引けば、最初に記されているのは「心臓」です。日本人が「心」という言葉を耳にして、直接的に「心臓」という臓器をイメージすることはありません。たしかに「心」と遠からぬところに「心臓」のイメージはあるのですが、臓器としての「心臓」と「心」とを明確に分離して認識している感があります。
ではMINDはどうでしょう。この単語には「意識・思考・意志・感情の座としての心」といった訳が記されています。つまりMIND が意味するのは「頭脳」の上で展開すると考えられる作用です。
EMOTIONは「感情・情緒」。もしかしたらこの単語が「心」にもっとも近いのかもしれません。
SPIRITは、一般には「精神、霊・霊魂」と訳されることからも分かるように、日本語でいうなら「心」よりも「魂」に近い意味合いです。SOULはやはり「魂、霊魂・霊」であり、SPIRITほどには純化されていない、生々しい「魂」の様相を思わせる言葉という印象を受けます。
さて、ここで日本語の辞書を代表する広辞苑で「心」を引いてみると、次のように記されています。
「人間の精神作用のもとになるもの。知識・感情・意志の総体。思慮・思惑。思いやり・情け。情趣を解する感性」
この広辞苑の解説と英単語の意味とを並べて考えると、「心」はHEARTとMINDとEMOTIONを一緒にしたような幅広い意味を持つ言葉だと分かります。また「情趣を解する感性」とも記されているように「感受性」、英語に置き換えるならSENSEやSENSIBILTYといった意味合いまで包括する言葉だといってよいでしょう。
しっかり認識しておいたほうがよさそうです。「心」というものの有無は、人類共通の「自明の理」ではありません。少なくとも英語においては「心」にそのまま合致する単語がないのですから、英語文化圏の人々には日本人と同じ意味での「心」という認識、見方はないと受け止めるしかありません。

● 心理学という言葉の不思議

ここでもう一つ、興味深い事実を記しておきましょう。
私たち日本人は「心理学」という言葉を何の疑問もなく使っています。しかし英語のPSYCHOLOGYに対する訳語として「心理学」は本当に適切なのかといえば、大いに疑問です。すでに述べたように、そもそも「心理学」の「心」に相当する英単語がありません。
PSYCHOLOGYのPSYCHO-は精神または霊魂を意味する接頭語です。したがってPSYCHOANALYSISは精神分析であり、PSYCHOANALYSTは精神分析医です。その流れのままに理解するなら、PSYCHOLOGYは「精神学」と訳されるべきだったのです。
心理学とは「心の理(メカニズム)の学問」という意味です。日本人は「心」という、「精神」よりもより幅広い包括的な概念を考察する学問としてPSYCHOLOGYという言葉を解釈し、そうであるからこそ「精神学」ではなく「心理学」という言葉を当てたのだと考えてもよいのかもしれません。
では「心理学」が「精神学」よりも幅広く包括しているものは何かといえば「身体」といってよさそうです。日本を含む東洋の思想には「心身一如」の感覚が根付いています。心と身体は不可分であり一つのものである、とする感覚は「精神」のみの独立を想定していません。体を離れた頭脳活動だけで「心」と考えることはなく、頭脳と身体とが一如となったところに「心」をみようとするのです。
欧米の文化には「精神」と「肉体」とを分離して考える二元論の傾向が強くありました。この傾向が次第に弱まり、「精神と肉体」を全体として捉えようとする流れが強まる中、PSYCHOLOGY(精神学)も、精神のみに注目するところから、次第に「精神と身体」の深いかかわりを考察するものへと発展してきました。
本来はそれほど単純なことではありませんが、心身二元論であった欧米の精神学=PSYCHOLOGYは、20世紀も後半に入ると、次第に心身一如の心理学に近づいてきているとみることも可能です。
欧米ではHEALTH-PSYCHOLOGY=健康心理学という学問分野が重視されています。精神と肉体の深いかかわりを、病気の発症や治療の面に注目しながら研究する学問であり、精神学と医学とが合わさった領域とみてよいでしょう。
皮肉なことですが、本来は心身一如の思想が根付いているはずの日本では、体の疾患と心の状態の深いかかわりが軽視されがちです。医師の大半が、この点をほぼ無視しているところに日本の医学の後進性の一面が現れてもいるのです。
たとえば英語には医学用語としてPSYCHO‐ONCOLOGYという言葉があります。ONCOKOGYは腫瘍学、つまりはガンを専門として研究する学問です。したがってPSYCHO‐ONCOLOGYは精神腫瘍学と訳されます。アメリカの医学においては、精神状態とガンの発症・改善・治癒の関係が深く注目されていて、これは臨床医学として重視されるようになっているのです。
さて、私たち日本人が思う「心」はどこにどのようにあるのでしょう。頭脳にあるのか、心臓のあたりにあるのか。どちらでもありません。「心」とは、つまるところ精神・頭脳と身体・肉体との全体の状態を意味するらしいのです。心理学の世界にも、心身医学の世界にも、昨今ではそのような認識が広まってきています。
これはとても便利な認識です。また心理治療の可能性を広げる認識だといってもよいでしょう。
なぜなら、過去においては「精神」または「心」に働きかけることしかせず、それがためにはかばかしい“治療効率”がみられなかった心理カウンセリングが、体にも働きかけることによって“治療効率”を高められると分かったからです。

● 「心」のままにならない「体」

私のカウンセリングルームを訪れる方々の半分ほどは、わが子の問題に悩み苦しむお母さん達です。不登校、引きこもり、神経症、心身症、統合失調症傾向、外向き行動(いわゆる非行)など、子どもに現れている問題にどのように対処したらよいのかを思い悩むお母さん達。彼女らは、それらの問題の発現には親としての養育態度が深く影響していると気づくにつれて、次第に子どもへの言動・養育態度を変えてゆきます。そしてお母さんの言動・養育態度がより適切なものになるにつれて、これを追うようにして子どもの心理状態は改善してゆきます。
残りのほとんどは、自身の問題としての神経症、心身症、社会的不適応、ウツ傾向、夫婦の不和などに苦しんでいる方々であり、年齢は10代後半以上、40代くらいまでの方々がほとんどです。これらの中には、不登校・引きこもり状態から立ち上がって間もない青年の姿もあり、激しい外向き行動の時代を経て社会と折り合う道を探っている青年の姿もあります。
さて、ここで詳細に触れるわけにはゆきませんが、子どもの心に生じる問題の大半は、親、分けても母親が人間理解を深め、愛情深く受容的な態度で接するようになるに連れて根治的改善へ向かうのが普通です。また、自身の問題についても、自分自身への愛情を深め、社会・世間・世界・人間への理解が深まるに連れて、次第に根治的改善へ向かいます。
むろんその過程は、クライアントとカウンセラーの語り合いの中で模索されるのであり、語り合いこそが心理カウンセリングのすべてであるといっても過言ではありません。
ただし、語り合いの中で「これまでと異なる心持」の大切さを痛感し、「これまでと異なる子育て・子どもとの接し方」や「これまでと異なる人間関係の保ち方」などを意識のあり方や知識として学んだとしても、それだけでは何も解決しません。意識・知識として学んだことを「身体での理解」にまで深めないことには、好ましい変化はほとんど現れないのが普通だからです。
たとえば母親によって過剰かつ感情的に叱られ続けてきたために心に問題を生じてしまった子どもがいるとします。その子の心理状態が改善されるためには、過剰に叱ってしまう母親の養育態度が根本的に変化しなければなりません。
当然のこと、カウンセラーは過剰かつ感情的に叱ることの弊害を説き、他方で、受容的に接し、ほめることがよい効果を生じることを説き続けます。多くの場合、母親はかなり早い段階でそれらの意味を理解し「叱ることをひかえて受容的に接したほうがいい」と考えるようになります。
しかしそのように考えていながら、いざとなると感情的に叱ってしまう、叱ることが止められない、のが通例なのです。考えたとおりに行動できない。つい感情の波に圧倒されて、理性を失した言動に走ってしまう。
悲しいかな、それがごくごく当たり前の親の姿です。
しかし「だからしょうがない」とあきらめていたら、子どもの心は犠牲になり続けてしまいます。子どもの心に生じている問題は、さらに深刻になり、成長とともに家族全員の生活に重苦しい影を落とすほどに巨大化してしまう危険があります。
心理カウンセリングが成功するか否かの分岐点はこのあたりにあるといってよいでしょう。意識・知識による理解、つまりは頭脳による理解が、心身一如の「心」そのものにストンと落ちてくれるかどうかこそが最重要なポイントなのです。

●体への働きかけが心を変化させる

「叱ってはいけない、叱らないほうがいい。それは重々承知しているんですが、つい頭に血が昇ってしまって…」
カウンセリングの過程で、大半のお母さん方がそのような反省をくり返します。
「叱らないほうがいいと分かっていながら、いざとなるとどうしてもキレてしまうんです。いったんキレてしまうと、もう止まらなくて…」
お気づきかと思いますが、このような状態が深刻になったところで反復されるのが、子どもへの虐待です。
キレる。私たちは誰であれ、多かれ少なかれそのような状態を経験しています。では、キレているときの私たちは、平静・冷静なときの私たちとどのように違っているでしょうか。
まず、頭に血が昇っています。これは血圧が上昇していることを意味しています。
手足はワナワナと震えているかもしれません。つまりは筋肉が緊張しているのです。
胸がドキドキして、息も荒くなっていることでしょう。すなわち、心臓と肺、心肺機能が興奮しているのです。
このように興奮し緊迫した身体状態においては、体で分泌するホルモンも脳内で分泌するホルモンも、すべてが興奮系に傾きます。私たちは、興奮すれば頭脳の働きも直線的になり、多くのことに配慮しての適切な判断はしにくくなってしまいます。
頭で分かっている、理屈では十分に理解しているのに、いざとなったら頭で思っていたとおりには対処できない。そのとき、私たちの体はあらゆる意味で興奮しているのです。
では、いつでも、頭が理解しているとおりの適切な言動・行動がとれるためにはどうしたらいいのでしょう。
簡単です。体が無意味に興奮しないようにすればよいのです。心臓がドキドキしないように、息が上がらないように、筋肉が緊張しないように、血圧が上がらないようにできれば、頭脳も冷静な配慮と判断を行える状態を保ちます。
では、ここで自律神経という言葉を思い出してください。一般的な辞書には次のように記されています。
「意志とは無関係に、胃腸・血管・心臓・呼吸・ホルモン分泌腺・汗腺・唾液腺・すい臓などを支配し、その働きを調節する神経。交感神経と副交感神経とがあり、その中枢は脊髄と脳幹にある」
ごく大まかにいえば、交感神経は興奮させる神経です。交感神経が優位になると、胃腸の働きは抑制され、心臓のドキドキが高まり、呼吸が浅く速くなり、血圧が上昇し、唾液が出なくなって口の中が渇きます。頭脳の働きは直線的になり、冷静ではなくなります。
副交感神経は鎮静させる神経です。副交感神経が優位になれば、胃腸の働きが高まり、心臓が落ち着き、呼吸が深くゆったりし、血圧は安定し、唾液も出ます。頭脳の働きは多面的になり、冷静な配慮できるようになります。
ところで自律神経は、たしかに「意志とは無関係に」さまざまな身体作用を支配しています。血圧や心臓の脈拍や内分泌など、私たちは通常、意識的にコントロールすることができません。「ついカッとなってしまう」のは、意志とは無関係に、体が勝手に、血圧を上昇させ、心臓をドキドキさせてしまうからです。
しかし自律神経が支配している身体作用の中には、気づきさえすれば意識的にコントロールできる部分があります。それが何かといえば、呼吸です。呼吸だけは、普通はまったく無意識に自律神経にまかせていますが、その気になれば意識的にゆっくりしたり早くしたり、深くしたり浅くしたりすることができるのです。
そこで、呼吸を意識的にゆっくり深めるようにしてみると、私たちの体にはきわめて興味深い変化が起こります。通常は「意志とは無関係に」行われている身体作用が、呼吸の状態に応じて変化するのです。つまり呼吸が深くゆっくりすると、心臓の脈拍も落ち着き、血圧も安定し、全身がゆったりと落ち着き、頭脳の働きも冷静な配慮を深めるのです。
この点は大いに注目するべきでしょう。私たちは誰でも、呼吸に注目するなら、あらゆる身体作用を意識的にコントロールできるということにほかなりません。すなわち、呼吸に注目して身体作用を意識的にコントロールするなら、無用に興奮したり、無用にキレたりしない安定した心理状態を保てるようにもなるのです。
ごく単純に整理しておくことにしましょう。
要は、私たちの心は、体に上手に働きかけるなら安定するということです。キレやすかったり、不安定だったり、不安傾向が強い心も、体への適切な働きかけを重ねるなら、それだけでも良好で安定したものに変化するのです。
このような「身体への働きかけによる心理状態の安定」を実現するために、心理カウンセリングの現場では、自律訓練法と呼ばれる「心身調整法」が行われる場合が少なくありません。

● 自律訓練法の実際と意味

ごく単純に表現するなら「身体に働きかけることで心を安定させる方法」である自律訓練法は、ごく大まかには以下のように行います。
@ 楽な姿勢で座り、目を閉じる。
A 頭をグルグルまわし、肩を上げ下げするなどして筋肉をほぐす。
B 息をゆっくり、たっぷり吐いて、呼吸を深めながら「私はとても落ち着いている。とてもいい気分だ」と自己暗示する。
C 心臓に意識を向けながら「心臓がとても心地よく脈打っている。落ち着いていて、とてもいい気分だ」と自己暗示します。
D 手・足に重さを感じる。
右手、左手、右足、左足と順番に意識を向けながら「右手が重い」「左手が重い」と自己暗示します。これによって四肢の筋肉をゆるめます。
E 手・足に温かさを感じる。
右手、左手、右足、左足と順番に「右手が温かい」「左手が温かい」と自己暗示します。これによって四肢の血行がよくなります。
F お腹に温かさを感じる。
「お腹が温かい」と自己暗示します。これによって腹部、胃腸、内臓の血行がよくなります。
G ヒタイに涼しさを感じる。
「ヒタイが涼しい。頭がとてもすっきりしている」と自己餡じします。
H 終了するときには軽い屈伸運動などで、全身の筋肉に適度の緊張を回復させます。

 以上の手順を、たとえば毎日1回ずつくり返して練習すると、次第に体が上手にリラックスできるようになり、心の安定も深められるようになります。
 ところで、この自律訓練法を練習していて気づかされることの一つが「心の状態とは、つまりは体の状態にほかならない」という点です。
気づいてみればごく当たり前のことなのですが、私たちは、ドキドキする心臓、浅く速くなっている呼吸、血圧の上昇、筋肉の緊張などの自分の体の状態を感知したときに、不安、恐怖、イラ立ち、焦り、怒りなどの感情を自覚するのです。
 実際にはそうと意識するわけではありません。心臓がドキドキして、呼吸が浅く速くなっているのに気づいて「ああ、私は不安になっている」などと自覚するわけではありません。しかし自律訓練法によって心臓・呼吸・血圧が安定し、全身の筋肉がリラックスすると、それだけで私たちは「気分の落ち着き」を感じることになります。不安・恐怖・イラ立ち・焦り・怒りなどの原因となった客観的状況はまったく変化していないにもかかわらず、いくらかでもゆったりとした気分で、より適切に思考し、直面する事態に対してより上手に対応できるようになるのです。
 にわかには理解しにくいことかもしれませんが、私たちの心理状態は、体に対して「リラックスするように」働きかければ、それだけで十分に安定してしまうのです。
 むろん「身体の状態」と「心の状態」は完全にイコールであるはずがありません。極端
にいうなら、身体が苦痛のきわみにありながらも心はおだやかである、という状態もあり得ます。しかし通常は、身体に不調や苦痛があれば、心が晴れやかにはなりません。胃腸の調子が悪いだけでもイラ立ちやすく不機嫌になるのも人間です。二日酔いで身体的に落ち込んでいれば、心理状態もひどく落ち込んでしまうのが人間です。それらの身体的不調が解消するなら、心持も軽くなるという事実を、私たちは様々な状況において経験しているはずなのです。

● 健全な精神(心)は健全な肉体(身体)に宿る?

健全な精神は健全な肉体に宿る。
この言葉の解釈には諸説ありますが、本来は「心身ともに健全であることがもっとも望ましい」といった意味の言葉だったとする意見が有力です。あまりにも当たり前のことながら、少なくとも「身体が健全でなければ心が健全ではあり得ない」などの浅はかな意味ではないことだけは分かっておくべきでしょう。
それにしても痛感させられています。やはりよりよい心理状態を保つためには、よりよい身体状態を実現することが不可欠といってよいでしょう。
ここでいう「よりよい身体状態」とは「鍛え上げられたスポーツマンのような身体」ではありません。「その人なりに生き生きとした生命力に満ちた状態」です。
体力が不足している人、身体に不調を抱えている人は、やはり心理的にも落ち込みやすいのが事実です。心への働きかけで心理状態を一時的に改善できるとしても、身体的な不調や苦痛が解消されなければ、心の好調も長続きしにくいのが普通です。

『こわれた家族と「キレる」子どもたち』(フットワーク出版刊/1998年)より抜粋2004. 01. 06 Tue

【前書きより】
 心理カウンセリングの現場で「子どもの心理と親の心理の関係をめぐる語り合い」を重ねていると、あまりにも当たり前の原則が軽視されている、または無視されている、あるいは忘れ去られていることに、くり返しくり返し気づかざるを得ません。
 子ども達の環境は、親たち・大人たちが作り上げた日常的社会そのものです。
 子ども達の心にとっての環境は、親たち・大人たちの心そのものにほかなりません。
 親たち・大人たちは、長く生きた分だけ世知に長けています。ほとんどの大人たちが、必要に応じて自分の感情や情動を巧みに抑しかくすことができるし、人間関係や社会との関係を、少なくとも表面的には何とかやり過ごすことができています。しかしその結果として、背負い切れないストレスにつぶされそうになってしまったり、心身症や神経症と呼ばれる“心の不調”に起因する病に悩むことになったのです。
 子どもたちは、まだごく短い年月しか生きていません。大人たちほど世知に長けているはずがありません。したがって自分の感情・情動をコントロールするのがむずかしいばかりでなく、大人たちが表面的には巧みに抑しかくしている感情・情動の影響を、ほぼストレートに受けてしまうのです。
 感情・情動は伝染します。同世代同士においてよりも、上の世代から下の世代へのほうが、より深く支配的に伝染します。つまりは「ムカつく」心理は、それ以前に親たち・大人たちに蔓延していたからこそ、子どもの心に伝染したのです。大人は巧みな世知によって自身の「ムカつき」を抑しかくしたけれど、子どもたちへの伝染を避けることができなかったのです。
 ムカつき続けていた大人たちは、これも巧みな世知によって表面上は抑しかくしていながらも、どこか心の深いところでキレ続けていたはずです。だからこそ大人たちの「キレる」が伝染し、子どもたちのキレとしていっせいに表面化してしまったのです。
 「キレる」は世代継承型伝染病である。この見方は、たしかに一面的ではあります。しかし見落とされがちな一面でもあるだけに、「ついキレてしまう心理」が招く問題を解決する手立てを探る上で、もっとも有効かつ忘れてはならない見方でもあると信じます。

【エピローグより】
 私には離婚の経験があります。私にとって、あの10余年前の離婚こそが、大転換期の引き金でした。
 あれ以前の私は、率直にいってかなりキレやすい人間だったと思います。表向き優しくなかったわけではありません。むしろ通常はかなりの優しさをみせるタイプでした。しかし優しさの裏には、常に不満と不安がうずまいてもいました。したがって、優しくあろうとすればするほど、心の底から湧き上がる不満と不安が高じるたびに、ずいぶんたやすくキレていたのだなと、今にして思い返せるようになりました。
 若いころの私は、恋人の心が離れかけているのを直感して手をあげてしまったこともありました。妻や子に手をあげてしまったことも、皆無とはいえません。手をあげないまでも、心理的な圧迫を加えることならしばしばだったはずです。
 もっと昔の私は、自分をかまってくれない兄の尻めがけて、ペンを突き刺したこともありました。淋しく、他に頼る心がみつけられなかったあげくの腹いせです。
 そんなキレやすさの背景には、当然のこと生育歴が影を落としていました。父母の不和。祖父母を含む家族全体をおおっていた葛藤。思春期の真っ只中、祖父母が相次いで他界した後の寂寞感。追って父が他界。それから以後も20年およんだ母との和解までの日々。
 思い返せば当然の経過です。青年期の私には神経症の症状が幾つも現れていました。大学は中途から横向きに“卒業”。仕事らしい仕事などほとんどこなさない日々が、30歳を過ぎるまで続きました。
 甘ったれていたといわれれば、たしかにそう。甘ったれまくっていました。あえて分析するなら、親に十分に甘えられ保護なかった分、青年期の私は世間に甘ったれていたといってよいでしょう。
 そして甘ったれたままの結婚。その面だけでも、離婚にいたったのは当然の帰結だったのだと感じます。
 子ども時代から青年期までにかけて満たされなかった甘えを、周囲からの適切な援助を受けられるようになったおかげで、あらためて適切に満たせるようになったのは、40歳が間近になってからのことです。私は離婚という大きな節目を仕切り直しとして、子ども時代から青年期までの心理過程を、再度トレースしながらの育ち直しを経験したのだと感じます。
 本書を書き進みながら、いつも心に浮かぶ人がいました。
 伯母・トシ。彼女は、いつであれ心として寄り添っていてくれました。
 挫折感に打ちひしがれていた私は「しっかりしろ。ここで立ち直れなかったら取り返しがつかなくなる」の叱咤激励を浴び続けていました。そんな中、伯母だけは説教めかした叱咤激励など一切せず、ひと言「幸せになれよ」とだけ語りかけてくれました。
 あの日、伯母と別れての帰り道、私はそのひと言を「お前なら幸せになれる。大丈夫だよ」といってくれたのだと解釈しながら歩きました。説教や叱咤激励がなかったからこそ、心が安らいだのだと思います。
 最低限、たったひとりでもいてくれれば、心は救われるのかもしれません。破壊的なキレへの道を転がり落ちずにすむのだと思います。
 追い詰められた心にとって、説教や叱咤激励はさらなる追い打ちです。祈りをこめた言葉「大丈夫だよ。何とかなる。人生、いずれにしたって取り返しはつくものだ」という思いが込められたわずかなひと言を語りかけてくれる人が、たったひとりでもいてくれれば、人は自分を見失い切ることなく、ふらつきながらも歩み続けられそうな気がします。
 私たちはみな、一生間にたった一回でも、そんな“たったひとり”としての役目を果たせたとしたら、この世に生を受けた意味があるのかもしれません。

機嫌よければすべてよし、だなあ2004. 01. 06 Tue

(雑誌『おはよう奥さん』に寄稿/2003年)

 カウンセラーという仕事柄、どうしたところで毎日のように「心のあり方」について考えてしまいます。人間関係の綾、なかでも親子の関係の綾(あや)において、心の状態=心持ちがどれほどに決定的な影響を与えるか。この点ばかりは嫌というほど思い知らされてもきました。
 お気づきの方も多いと思います。ここでいう「親子関係」は、「母子関係」とほぼイコール。つまり、「お母さんの心の状態=心持ち」は「子どもの心の状態」に、絶対的ともいうべき大きな影響を与えるものなのです。
 カウンセリングの現場において、カウンセラーはさまざまなことを口にします。許し受け容れること、すなわち深く受容することの大切さ。子どもを叱ることよりも、たくさんほめて自信をふくらませることの大切さ。悲観的にならずに、不安にとらわれずに、日常の多くを明るくポジティブにとらえて過ごすことの大切さ。それらを、手を替え品を替えありとあらゆる方向から語りかける。それはカウンセリングという仕事の重要な核となる"作業"です。

 そうした"作業"を積み重ねるにしたがって、私は「な〜んだ」と思うようになりました。な〜んだ、要は機嫌がよければいいだけじゃないか。そう、そんなとても単純な原理に気づかされたのです。
 家庭において、お母さんの心持ちは驚くほどに強い伝染力を発揮します。お母さんの機嫌がわるいと、子どもの心は即座に荒れてくる。夫の機嫌も怪しくなる。両親の機嫌がわるくなれば、子どもは家庭を「イヤなところだ。こんな家にはいたくない。わたし/ぼくは愛されていない」と感じるようになる。
 ちょっと想像してみればわかります。これはあなたの家族のなかでも、ときどきは現れているはずの心の連鎖です。
 ではお母さんの機嫌がよければどうでしょうか。もちろん、子どもの心は安定します。より多くの友だちと機嫌よくつき合える知恵も身につきます。学校でも機嫌よく過ごし、勉強の効率もよくなります。お父さんの機嫌が少々わるくても、「いいの、いいの。大丈夫よ」と柳に風で流せるお母さんであれば、お父さんの悪影響から子どもの心を、ほぼ完全に守ることができます。

 みんな誰しも、本当は機嫌よく過ごしたいもの。私は痛感しています。人はたいてい、自然に、機嫌のよい心の周囲に集います。不機嫌な人からは遠ざかります。機嫌がよい。それはコミュニケーションの豊かさの土台にほかなりません。

 つい先日、台風襲来の日に講演しました。風雨をついて集まってくれたのは約50人ほどのお母さんたち。なかには強引に動員された方もいたかもしれません、私が壇上で話し始めた当初、会場の空気は沈滞気味でした。
 そりゃあ仕方ありません。外は大荒れ。壇上に立っているのはへんてこなヒゲおやじ。話題は厄介きわまる子育ての話。けど、こちらも人間心理のプロですからツボは心得ています。くすぐって笑わせたり、ちょいと感動話で目頭を熱くしてもらったり。そんなこんなで1時間もたったころには全体の空気が和みました。そう、要は会場にいるみんなの機嫌がとてもよくなっていたのです。外は大荒れ。でもみなさんの心はほほ笑んでいました。
「ねえ、今のみなさんの心持ち、その機嫌のよい心持ちで過ごしていれば、子どもたちも幸せ、家族みんなが円満。すべての問題が快方に向かうはずですね」
 ほぼ50の顔が大きくうなずきます。機嫌のよい50の顔は、年齢や造作とは無関係に美しく輝いて見えました。
「でもね…」。私は言葉をつなぎました。
「でもね、その機嫌のよさが、家に帰って3時間と保てないんですよね」
 50の顔はドッと笑いました。そうなんですね、お母さんたちはみんな、自分の心の現実というものをしっかりわかっているのです。

 いつかお話しできるチャンスがあると思います。私が信ずる「カウンセリングの本質」は「機嫌よい心持ちを保つコツをお伝えすること」です。そう、コツがあるんです。そのコツは、意外に簡単に身につくものなのですよ。

新宿のユウちゃん2004. 01. 06 Tue
(2003年)

 何年前になるのかな。少なくとも数年以上前まで、私は新宿あたりでずいぶん飲んだくれてました。新宿西口駅裏のバラックのような小さなカウンターバー。じゃなかったら、のんべ横丁の赤提灯。
のんべ横丁は、ゴキブリ横丁だのションベン横丁だの、いろいろ異名のあるところ。思い出横丁というのが、とりあえずの本名だったか、とにかく呑み助の溜まり場です。
新宿というと、みなさんは思いますね。二丁目、とか、ゴールデン街、とか、歌舞伎町。ま、ね、そういうところも行かないわけじゃない。けどさ、ポケットが軽い身分としては、やっぱり、西口駅裏あたりの気分が楽でね。
30代半ばから40代半ば過ぎまで、ずいぶん通ったもんです。本当によくよく通いました。
♪新宿駅裏 赤とんぼ〜〜よくよく通ってくれました〜〜
今日でお別れ店じまい〜〜思い出してねときどきは♪
 てな演歌が昔ちょっと流行ったんですけど、まるでその歌そのままのような世界が、数年ちょっと前までの新宿西口の駅裏には、たしかにありました。
 私が通ったのは「みやこ」ってカウンターバー。ママの名は雅子。せいぜい10人で目一杯。肩寄せあって、基本的に男ばっかりがなんだかんだとしゃべくりながら呑む店でした。
 80歳を越えた妙に魅力的な絵描きの爺さん。何先生だったけなあ。
侍言葉が大好きなしがないサラリーマン、ゴッちゃん。
金回りが悪くなったことをポツリポツリと愚痴っている小会社の社長、中ちゃん。
脇役専門の役者、ベレー帽の、ああ、この人の名前も忘れちゃった。
ママがクセの悪い人は追い出しちゃうものだから、みんないい人ばかり。客だねのいい店でした。
 そこにときどき顔を出すのがユウちゃん。ボロいギターを抱えた流しのおじさん。たしか私と同い年です。
 彼がね、とびっきり下手なんだな。ギター弾くにはコードというのが重要なのだけど、その大事きわまるコードさえ、せいぜい三つくらいしか知らない。客に唄わせて、ギターを伴奏しているフリはするのだけど、まあいい加減どころかメチャクチャなのはみえみえ。
リクエストされれば自分でも唄うのだけど、お世辞にも上手いとはいえません。
 それでね、3曲で千円。高いっちゃ高いよ。ニヤニヤしながらビールおごってとねだりもするし。
 でもね「みやこ」の客は、みんなそろってユウちゃんが好き。ママの雅子さんも彼をとってもかわいがっていました。
 話はずれるけど、雅子さんは、あのころで70歳に近かったかな。昔はかなり美人だったろうというお婆ちゃんで、きれいな商売をする人でした。若いころには銀座のクラブで鳴らしていただの、こんな商売してても男だけにははまらなかっただの、節度を越えぬ昔語りも心地よいママでね。
それが、クセの悪い客を前にすると本当に怖くなる。ああ、この商売なまはんかじゃないな、と、そんなときには酔ってながらも背筋が伸びちゃったもんです。
 そんな数年以上前のことなんかあまり思い出さなくなっていたのに、なぜだろうな、数日前、新宿を友人と歩きながら、その当時のことを思い出し語りしてたんですよ。するとどうしたことだろう、私を追い越してゆくギターかかえたオヤジ。後姿ですぐ分かる。ありゃあ流しのユウちゃんです。
おいおい、と肩を叩く。
おおお、元気だった? と握手する。
覚えてるかい?
 ああ、ああ、覚えてるよ、山ちゃんだ。
 なつかしい出会い。グッドタイミングすぎる出会い。だけどここで気を許しちゃいけないのさ。だって、ユウちゃんはビールをおごられたくてしかたがない。いつまでも手を握っていると、そのままどこかの店に連れてかれちまう。
 俺のポケット、昔よりもさらに軽いしな。あのころのような呑み方もしたくないしな。
 だから、じゃな、またな、元気でな、と手をふりました。
 でも、それから新宿大ガードの横断歩道を渡りながら、胸の中にあのころのなつかしい情景、なつかしい人々の姿が去来してね。足は自然に、西口駅裏、今はビルになってしまった、かつてバラックの飲み屋が並んでいたあたりに向かっていました。
 ああ、この線路際に、いろんな人がやってきていたなあ。なんだか夢のような空間だったなあ。そういや、侍言葉のゴッちゃんは、一人暮らしのアパートで、一人寂しく死んじゃってて、飲み仲間に発見されたって話だったな。絵描きの先生も、そうそう、とっくに亡くなってて「みやこ」に爺さんの孫がやってきいて、みんなで弔い酒呑んだんだった。景気が悪くなった小会社の社長の中ちゃんは、結局、まったく姿をみせなくなっていたしな。脇役役者も、このごろじゃテレビにも映画にも出てないな。
 そういや、肝心の雅子ママは、バラックが立ち退きになって、それから歌舞伎町に小さな店開きなおして、でも立ち行かなくなって、それから西荻あたりで店を開いたからって電話してくれたっけな。でも、もう店やれてないよな。ちょっと歳とりすぎて、疲れちゃってたものな。
 ユウちゃんだけじゃん、あのころと同じように新宿の夜を歩いてる。あれ以上うまくなるはずのない歌とギターで、なんとかかんとか食いつないでいる。あとはみんな、違う世界へいっちゃったなあ。

分け入っても分け入っても青い山2004. 01. 06 Tue
(親父の会会報5周年記念文集に寄稿/2001年)


分け入っても分け入っても青い山

 明治15年・1882年に山口県防府市の大地主の長男として生まれた横田正一、後の種田山頭火は、大正15年・1926年にこの句を読んだと記されている。
 このとき山頭火44歳。行乞行脚、以後とどまることできずに続く流転の旅に出て間もなくに詠んだ句なのだそうだ。
 30代半ばで酒造業に破れて資産のすべてを失い、いくつかの職に就くがどれも長くは続かず、40歳を目前にして妻と離婚。それからの山頭火は、夫としても父としても役目を果たせぬ己を責め続けていたといわれる。
 そんな男が、後ろ髪を引かれながら、汗をぬぐいながら、空を見上げ、足元をみつめながら、どこまでも青い山道を歩み続ける姿。悲壮なのであるか、同情に値するのであるか、私には分かりようがない。それでいながら、ただひたすらに足を運び続けずにはいられぬ心中だけは、なぜか想像がつくような気がする。

 木の葉散る歩きつめる
 落ちかかる月を観てゐる
 まっすぐな道でさみしい
 また見ることもない山が遠ざかる
 すべってころんで山がひっそり

 生きるのはなんだか切ない。20代初めの私は、山頭火の句と出会ってそう感じていた、あるいは自身の内の浅はかな切なさを、山頭火の句に投影していた。

 30代半ばを過ぎたころの私は、今にしてふり返れば必然の成り行きの末に離婚を受け入れざるを得なくなったとき、子にすがっていた。夫婦の破綻の後も、子にすがることで自身の生をやり過ごそうとしていた。一人で生きるなど、恐ろしくてとても受け入れられなかった。
 けれどすがろうとした子も去った。喪失感にまどいながら過ごす中、新たな家庭のうちに新たな子に恵まれた。
 やっと分かるようになったのはそれからだった。妻にも子にもすがるわけにはゆかない。一人で生きるのなど恐ろしくて受け入れられぬに変わりはないが、妻にも子にも、他の誰にもすがるわけにはゆかない。どうやらそうらしいことだけは分かるようになった。

 40代半ばの私は、所用で札幌を訪れた折のこと、仕事を終えた午後に北海道大学のキャンパスを歩いていた。
 目的があった。叔父の思いに触れる。漠然とではあったが、私はそう念じながら歩いていた。
私が生まれたのは49(昭24)年。その叔父は45(昭20)年4月に、海軍の特攻隊で戦死している。北海道大学在学中に召集され、特攻隊に志願し、戦闘機乗りらしい訓練など受けぬまま、もちろん戦闘機乗りとして誇らしく語れる空戦など一度たりとも経験せぬままの特攻死だったらしい。祖父母も父母も、そんなことを語り聞かせるはずがない。だが長ずるにつれて、そのように察するほかなくなっていた。
はたちを過ぎて間もない青年が、どのような思いを胸にしながら、自ら死するための空へ舞い上がっていったのか。私は折に触れてはそのことを思いめぐらしながら過ごしてきた。思いめぐらすうちに、少年時代に抱いたゼロ戦乗りへの憧れはすっかり消え果て、それと入れ替わるように、志を果たせぬまま大学のキャンパスを去らねばならなかった若者の心が痛ましく迫るようになっていた。
いいキャンパスだな。俺もこの大学を目指せばよかった。ああ、これがボーイズビーアンビシャス、クラーク博士の像か。
気楽なつもりで歩き続けるうちに、しかしいつしか私は感じ始めていた。
豊かな緑。広々とした敷地。ぜいたくな空間に点在する学舎。さまようように歩きながら、あくまでも主観でしかないのは分かりきっていたのだが、そこには志を封じてキャンバスを去った叔父の思いが数え切れぬほどたくさん漂っているのを感じる。
ここでもっと学びたかっただろうに。恋もしていただろうに。日ごと夜ごと友とも語り合っていただろうに。酒も酌み交わしていただろうに。
遺念とでもいうべきか。私は胸に抱えた骨壷に、漂う思念を収集するかのような気分で歩き、いつしか慟哭せざるを得ぬほどに心が張り詰めていた。
木立の下に電話ボックスをみつけた。私は一人暮らしをしている母のダイヤルをまわした。
母は、この叔父が旧制中学の最終学年ほどのころに嫁いだはずだ。叔父が北大生だった43(昭18)年末、私の兄が生まれている。
「海軍の叔父ちゃんはね、最後の別れ際にお兄ちゃんを抱きながらこういったよ。俺という人間がこの世に生きていたということだけでいいから、この子に伝えてほしい。そう言い残して出掛けていったんだよ」
 そんな叔父の姿を語る母に、私がいま、彼が過ごしたこのキャンパスにいることを伝えたい。私はそう思っていた。
「俺、いま北大にいるよ。いやあ、歩いているうちに、海軍の叔父ちゃんの遺していった思いが次々に集まってくるような気がしてさ……」
 あとは言葉にならなかった。涙をこらえて、せめて何かを伝えたいと思う私に、母も涙声になりながら「ありがとう」をくり返していた。
 広いキャンパスの端にたどりつき、境の判然としない出口から道路へ出て、私はまだ呆然とした思いのまま歩き続けていた。すると飲み屋の暖簾が目に入る。古い店ではない。けれどこの大学の学生達が集う店にも違いない。
 夕べもまだ早い時刻ではあったが、こんなときにはお酒をいただくのが大事。私は呆然としている心中を整理するために、また叔父である、私よりもはるかに若いままでいる青年に杯を捧げるために、その店のカウンターの隅に腰掛けた。

 長野・小谷村で、一人の女性が息子の死を語る姿を前にしたことがある。まだ8歳だったか、その子は水難で他界した。
「あの子は学校に行きたがらなくて。でも私たち夫婦は行かせようとして…」
 長男であるその子への謝罪を胸にしながら、残る子への慈しみを語る彼女の話に、私は嗚咽せざるを得なかった。なぐさめることなどできなかった。
 ただ生きてくれていればいい。そこに姿をみせてくれていればいい。
 たとえどんなに短い生だとしても、誰ひとり欠けることなく、生きるべきはすべて生きて天に昇るのだ。本心からそう思えればどんなに心安らぐことかと思う。

 52歳。まあ外見(そとみ)には一人前の父親とみなしていただけるまでを生きられてきて、生きているのはいい、と、たしかに思えるようにはなった。楽しいことは盛りだくさんある。うれしいことも訪れる。悲しみや苦しみも、ひたすら歩み続けていれば癒されるのだとも知った。
 けれど山頭火の句に触れても浮かび上がる「生きることの切なさ」は今もまだまだ、少しも薄れぬまま心のうちに漂っている。

 2001(平13)年9月、テレビの画面にくり返し映された惨劇を思いながら、あの日に胸の内で響いた数千の悲鳴に圧倒されながら、毎日をいかにも楽しそうに過ごしている8歳の息子の姿をながめている。丸5年の断絶の末に、20歳を過ぎてうれしい声をとどけてくれるようになった娘の姿も思っている。
「いや、生きるのは、それでもなんでもいいもんだよ」
 何があろうともその一言に確信を込めて伝えられる大人でいたいと念じている。『この素晴らしき世界』という歌。私としてはルイ・サッチモ・アームストロングの唄がいちばん気に入っている歌に、こんな一節がある。

 赤子の泣き声が聞こえる
 俺はあの子らが育ってゆく姿を見守りたい
 あの子らは 俺たちが学び得たことよりもはるかに多くのことを学んでゆくはずだ
 そう思えばこそ この世界のなんと素晴らしいことか

 さまざま考え、視野を広げ、いくばくかでも学びを深めてきているつもりでいながら、わが子のこと、家族のこと、家計のことほか、いざ身辺の出来事となればアタフタたじろぐしかないままの私が、これからもまだのらりくらりと生きてゆく。生きてゆく限り、出来事は、よいこともよからぬことも際限なく起こってくる。
「それでも、ま、生きてればなんとかなるでしょ」
 とりあえずは、そう思える。

 月に1回、親父の会にも参加してくれている青年たちと語り合う会を持てるようになった。戸惑いや挫折を経験し、いまも乗り越えきったわけではない彼らとの語り合いが、いつでも私の心を安らげてくれる。
 戸惑いや挫折。乗り越えたつもりでいて、今もまだ乗り越えきれていない懸案がたくさん取り残されたままでいるのは、この52歳の親父だって同じこと。青年たちと語り合っていると、いやはや、生きるのは何と厄介なことかとも思い、でも何とかなるんだとの確信も深まる。
 会に参加してくれる青年の一人が口癖のように言う。
「ま、なんとかなるんすよ。やっぱ、何とかなりますよ」

 親父の会が丸5年。5年前といえば96(平8)年。北大キャンパスの電話ボックスにいた私に「ありがとう」をくり返してくれた母が亡くなった年だった。それまでは行き来が続いていた娘が、連絡を途絶した年でもあった。
 はあ、あれから丸5年か。あらためて思う。ずいぶん様々な思いを胸にしながら、親父の会のあの囲炉裏端に座らせてもらってきた。

 実をいえば、山頭火のように、この世のエトランジェとしてさまよい出でてしまいそうになる危うさが、私の心にも潜んでいる。それが男の本質の一部なんじゃないかと夢想したりもする。
 そうかと思えば、自身の生命をつないでくれる我が子の姿を目の当たりにして、おお、おお、今後ともしっかり生きねばと心改めたりもうする。
 男、夫、父。なんだか頼るに頼りきれぬ生き物だと思えるのは、私の偏見だろうか。

 みんな生きてゆく音をたててゐる

 若いころの私には、まさに音もたてずにじっと潜むように過ごしていた時期がある。音をたてるのが生きること。音もたてられぬのは生きられぬでいること。あのころにも山頭火の句集をめくっていたけれど、この句が目にとまることはなかった。
 親父の会の席に座らせていただきながら、私は集うみなさん一人ひとりの声という音を聞かせていただいてきた。声に込めて伝えられる出来事や思いの背後に、妻や子らがたてる音や声を聞かせていただいてきた。
 みんな生きているんですね。
 生きていればいい。ま、なんとかなるんすよ。
 親父たち、お母さんたち、若者たちが、みんなが月に1回顔を合わせるたびに、互いが生きていることをよろこび合えればいいのか。親父の会とは、そんな集いなのかもしれない。
 飲めば唄い、唄えば踊る。親父もお母さんも若者も、さまざまな片付けきれぬ思いを胸にしながら集い、語り合い、その末にお酒もおいしくいただいて。
 親父の会はありがたい。

Maintenace Mode
Original Script is Rescue's MiniBBS
Type-E IEX v1.0 arranged by ARTEMIS